第16話

 幸い、その日の午後は両親が雪花の様子を見に来ることはなく、召使いが粥を持ってくるときのみ、人と会っただけだった。

 雪花はひとりで毒の食事を取っている。

 家族の団らんなど知らなかった。おぼろげな記憶では、母が生きていたときに家族で食卓を囲んでいたこともあったと思う。今となっては遠い過去のことだ。

 けれど、毒の粥もこれで最後かと思うと、さじが進んだ。

 最後の毒の食事を終えた雪花は、窓の外を眺める。

 今宵は下弦の月だった。

 紫蓮は今頃、家を出ただろうか。まさか、忘れているなんて、あるわけないとわかってはいるけれど……

 不安と奇妙な昂りに、どきどきと雪花の胸は早鐘のごとく鳴り響く。

 彼を信じているのに、裏切られるのが怖い。

 もし紫蓮が来なかったときに、そんな彼に対して気持ちが冷めてしまう自分がいるのが怖いのだ。

 溜息をつきかけた、そのとき――

「雪花、こっちだ」

 小さな囁きが、耳に届く。

 紫蓮の声だ。

 雪花は燭台の灯火を吹き消して、そっと外を覗いた。

 すると、身をかがめた紫蓮が庭木の陰に立っているのが見えた。

「紫蓮! 来てくれたのですか?」

 小声だが、雪花の声は震えていた。それは感激と、逃亡が決行されるという恐れの双方を含んでいた。

 周囲をうかがいつつ、部屋まで歩み寄ってきた紫蓮は黒の上衣と褲子を身につけていた。人目につかないようにするためだろう。

「もちろんだ。約束しただろう。さあ、行こう」

 紫蓮は緊張した顔つきで、手を差し伸べる。

 雪花が彼の手を取ると、ほっとした紫蓮は笑みを浮かべた。

 ――紫蓮も、同じ気持ちだった。

 本当に雪花は家を捨てて自分と来てくれるのかと、彼も不安だったのだ。

 同じ想いだったのだと知り、雪花は想いをまっすぐに伝える。

「私は、紫蓮とともに行きたいです。どうか連れていってください」

「わかった。俺に任せてくれ」

 ふたりは密かに屋敷を出た。

 暗い小道を抜け、垣根を越える。屋敷の者は寝静まっている時刻なので、誰にも見咎められなかった。

 月光の下を、しっかりと手をつないで駆け抜ける。

 紫蓮の黒髪が、眩い月明かりに煌めいていた。

 胸を弾ませた雪花は、ハアハアと息を継ぎながら、固く強張った紫蓮の顔を見やる。時々後ろを振り返ってみたが、誰も追ってこなかった。

 大通りは静まり返っており、ひと気はない。

 うろついている野犬が走るふたりを眺めていたが、吠えられることはなかった。

 やがて紫蓮は歩を緩める。

「ここが俺の屋敷だ。裏門から入ろう」

 そう言われて見上げた屋敷は、とてつもなく豪華な邸宅だった。甍は月明かりに光り輝き、屋敷の敷地はどこまでも続いている。

 良家の子息だとは思っていたが、紫蓮の父親は町で一番偉い役人なのだろうか。

 裏門を通り、森のような庭を抜ける。池を回り込むと、現れた棟の一室に案内された。

「ここが俺の部屋だ。さあ、入って」

 初めて訪れた紫蓮の自室はとても広く、豪勢な部屋だった。

 机は学校の教師よりも立派なもので、椅子にも精緻な細工が施されている。勉強部屋の隣は寝室で、豪奢な寝台が置かれていた。

 紫蓮は雪花を、長椅子に座らせた。それから暖かそうな膝掛けをかけてくれる。

「寒かったろう。今、明かりを灯すから」

「はい」

 彼の優しい心遣いが嬉しい。

 一緒に逃げてきて、よかった。

 そう雪花が思ったとき、部屋に近づく大人の足音がした。

 燭台を手にして現れたのは、初老の男性だった。

「紫蓮様……その娘はどうしました?」

「昼間に話しただろう。蘭家の娘の、雪花だ」

 男性は息を呑んだ。明らかに困惑を浮かべている。

「まさか本当に娘をお連れになるとは思いませんでした。すぐに帰ってもらいましょう」

「なにを言う! 彼女は両親から虐待されているんだぞ。これからは俺と一緒に暮らすんだ」

「いけません! 今は大事な時期です。お父上の耳に入ったら悪い結果にしかなりません」

『悪い結果』と聞いた紫蓮は口を噤む。

 紫蓮の家庭にも、なんらかの事情がありそうだ。男性は彼の父親ではなく、やはり後見人のような立場らしい。

 それでも紫蓮は雪花をかばうように、男性の前に立ち塞がった。

「だめだ。雪花は俺の妻にする」

 その言葉に、雪花は目を見開く。

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