第15話
とにかく、紫蓮に服毒されていることだけは言えない。なにがあっても。
雪花はぎゅっと握りしめた拳を、胸に押し当てた。
その日も紫蓮がやってきた。彼は変わらず優しい笑みを雪花に向けてくれたが、ふと庭のほうを見やる。
「庭の隅にある小屋には、罪人を入れるのか?」
「え……えっ⁉」
突然言われた『罪人』という言葉に驚きを隠せない。自分は罪人なのか。雪花は真紅の唇を震わせた。
そんな雪花の怯えた様子を見た紫蓮は、眉をひそめる。
彼は自分の言葉で雪花を怯えさせたと察し、そっと雪花の肩に手を添えた。
「どうした、雪花? 俺が非礼をしたのなら謝る」
「いえ、そういうわけではないのです……」
「では、どうしたのだ。ああいった鉄格子付きの小屋を俺は見たことがあるが、罪を犯した者を入れておくのだと聞いた。あの小屋になにかあるのか?」
紫蓮は疑問に思っている。
雪花が怯える理由に、彼はすぐにも辿り着きそうだ。
雪花はおそるおそる口を開いた。
「あの小屋は……悪いことをしたら、私が入れられるのです」
「悪いこと、とは? 雪花はおとなしい娘だ。なにも悪いことをしないだろう」
「それは……よくわかりません。お父様を怒らせたら、ということだと思います」
毒のことは伏せておきつつ、雪花は紫蓮に打ち明けた。
口に出してしまうと、小屋に閉じ込められることが現実味を帯びてくる。
父は雪花を誰とも接点を持たせないため、監禁して毒だけを与え続けるつもりではないか――
だが、それがなんになるというのか。雪花を殺したいのなら、もっと大量の毒を一度に与えればよい。いくら毒に耐性のある雪花でも、限界はあるだろう。それなのに父は真綿で首を絞めるかのごとく、雪花が死なない程度の毒を延々と投与し続けるのだ。
私はいずれ殺される――
そう恐れたとき、紫蓮が強い眼差しを向けた。
「雪花。俺と逃げよう」
「……え?」
なにを言われたのか、一瞬理解できなかった。
雪花は両親のもとから逃れられると思っていなかった。
頼れる人は誰もいないのだ。どこへ行けるというのだろう。手を差し伸べて、かくまってくれる人などいない。
でも今は、紫蓮がいた。
「雪花は父上から虐待されているんだよな? 詳しいことは言いたくないなら言わなくていいが、怯えているきみを見ていたらわかる。どうにかしてやりたいと、俺は考えていたんだ。この家から逃げて、俺の家できみの面倒を見よう」
「紫蓮……本当に? 私、紫蓮と、行けるのですか?」
「ああ、行けるとも。今夜、迎えに来る。俺は家に帰って準備をしてくるから、待っていてくれ」
「わかりました」
約束をすると、紫蓮はぎゅっと手を握った。
手を振って帰宅する彼の姿を見送った雪花は、しばらく呆然とした。
夢に浮かされたように、体と心がふわふわしている。
本当に、両親のもとから逃れ、彼と一緒に暮らせるのだろうか。
そうなったらどんなに素敵だろう。
もう毒を飲まされることもないし、大好きな紫蓮といつも一緒にいられる。
そのとき雪花は初めて、紫蓮に恋心を抱いていることを自覚した。
これまでは不遇な暮らしゆえに、誰かに恋をするなんていう気持ちは知らずに過ごしてきた。恋するような相手もいなかった。
けれど紫蓮に会って、雪花は変われた。
誰かを想い、慈しむ気持ちを知ることができた。
そして、現状を打破するという希望も持てた。
今までになく明るい気持ちが胸にあふれる。
その一方で、微量の不安も片隅にあった。
「紫蓮は本当に来てくれるのでしょうか……」
彼は両親とは別居しているそうだが、家には後見人がいるのではないだろうか。十四歳の紫蓮はひとりで生計を立てているというわけではなく、まだ学生のようだ。しかも良家の子息ならなおさら、いずれ親の決めた家柄の釣り合う娘と結婚しなければならないはず。不幸な雪花を養える立場ではないように思える。
彼と結婚したいなんて高望みを願わない。
下女でもよい。ただ、紫蓮のそばにいたかった。
後見人を説得できなかったとき、紫蓮は今夜訪れないかもしれない。
でも、どうしても、来てほしかった。
雪花は紫蓮が約束を果たしてくれることを、一心に願った。
自分が両親の虐待から救われたいがためではない。
彼が約束を果たす誠実な人であってほしかったから。
数刻は永遠のごとく長かった。
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