第11話
「……寂しかったです。でも紫蓮と再び会えて、寂しさは消えてなくなりました」
彼はあのときのままの、優しく思いやりにあふれた紫蓮なのだ。
大好きだった彼に十年という時を経ても気遣ってもらえたことが、たまらなく嬉しい。
だが、頬に添えられた紫蓮の手が、紅い唇のすぐそばにあることに気付き、はっとなる。
いけない。もし唇に指が触れてしまったら、毒が移ってしまうかも。
焦った雪花はとっさに身を引いて、紫蓮から距離をとった。彼の温かいてのひらが頬から離れる。
「雪花? どうした」
「あ、あの……近づかないでください」
「なぜだ」
紫蓮は硬い表情をして問いかける。
まさか、毒が移るからとは言えない。
「さっき、厠を掃除したので、匂いが移ってしまいますから……」
嘘ではなかった。
大掃除を行った雪花は衣が薄汚れている。両把頭に結い上げた髪も不格好にほつれていた。とても憧れの人に堂々と会えるような姿ではない。
ふっと笑った紫蓮は、今度は雪花の手を取った。
「気にしない。宦官から厠の掃除を言いつけられたのか?」
「ええ……掃除はいつもしているのです。私は答応なので、ほかの答応のみなさんと一緒に毎日講義を受けています」
「そうか。講義はどうだ? つらくはないか」
「いいえ、ちっともつらくありません。この間は答応たちの間をネズミが走り回って大騒ぎになったんですよ」
紫蓮は楽しげな笑い声をあげた。雪花もつられて笑いをこぼす。
こんなに心が浮き立つのは、子どもの頃に彼と接していたとき以来だ。
けれど、ふと雪花は気がつく。
ここは後宮だ。どうして紫蓮は後宮の中にいるのだろう。皇帝の居城である金城の最深部は、街の者が景色を眺めるためにぶらりと訪れるようなところではなかった。
ということは――
「後宮にいるということは、紫蓮は宦官なのですか?」
「ああ……そんなものだ。雪花と別れてから、いろいろと目まぐるしく環境が変わってな。俺のことは、かつての友人の紫蓮と思ってほしい」
「ええ、もちろんです」
雪花と離れてから、彼の人生には様々なことがあったのだ。あまり語りたくない悲しい出来事もたくさんあったのかもしれない。雪花だって、実家でのことを語れるはずもない。あれこれと紫蓮の身の上を詮索するのはやめておこうと、雪花は心に刻んだ。
眩い夕陽が精悍な彼の横顔を照らしている。
その輝きを目にできるだけで、雪花は幸せだった。
紫蓮は雪花と手をつないだまま、川縁の道を歩き出す。
「宮へ帰るのだろう? 送っていこう」
「ありがとうございます。実は昼餉を食べていないので、お腹が空いていました」
「はは。それは大変だ。俺が支えるから、いつ倒れてもいいぞ」
「ご冗談を。倒れませんから」
笑い合いながら歩むふたりの姿が夕陽に溶ける。
紫蓮の大きなてのひらはとても温かい。まるで夕陽のように、おおらかに包み込む熱さだった。
やがて川を離れて小道を抜け、西の門をくぐる。答応たちが暮らす、横に長い棟の甍が見えてきた。
すると、雪花の部屋の前に立っていた鈴明が心配そうな顔をして辺りを見回していた。
かなり遅くなってしまったので、探しに行こうか迷っているようだ。
それを目にした紫蓮は、つないでいた手をするりと離す。彼は雪花の肩にそっと手を添えた。
「では、俺はここで」
「はい。送っていただいて、ありがとうございました」
「……また明日、あの川縁で会えないだろうか。侍女が心配しないよう、もう少し早い時刻でよい」
紫蓮の誘いに、雪花の胸がとくりと甘く鳴る。
また、紫蓮に会えるのだ。なによりも彼が雪花に会うことを望んでくれるのが嬉しい。
妃嬪と宦官という間柄ではあるが、後宮に勤める者同士、少しだけ会って話をしても許されるのではないだろうか。
「はい、ぜひ。私も、紫蓮にまた会いたいです」
花が綻ぶように、ふわりとした笑みを雪花は浮かべる。
その表情を目を細めて見た紫蓮は、ゆっくりと頷いた。
「では、また明日。会えるのを楽しみにしている」
「ええ……」
名残惜しいが、また明日会えるという希望があるのだ。
そのとき、雪花の姿を見つけた鈴明が駆け寄ってきた。
「雪花様! もう夕餉のお時間ですよ。どちらに行っていたのですか?」
「ごめんなさい。掃除のあと、少し散歩していたのです」
「今、どなたかがいたようですけど……宦官でしたか?」
ふと後ろを振り向くと、もうそこに紫蓮の姿はなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます