第10話

「そうですね。今から緊張します……」

 すべての妃嬪が集まる朝礼は週に一度だけ行われる。雪花は入宮したばかりなので、まだ朝礼に参加したことはない。数日後の朝礼で初めて、現在の後宮の主である栄貴妃から、雪花が紹介されることになる。

 眉根を寄せた良答応は、思わせぶりに指を一本立ててみせた。

「気をつけたほうがいいわよ。新参者は、栄貴妃から嫌味ったらしい小言を言われるから」

「……栄貴妃は怖い方なんですね」

「怖いっていうか、まあ会えばわかるわよ。女の戦いが見られるからおもしろいんだけどね」

 彼女なりに楽しめる要素があるらしいが、良答応の話を聞く限り、栄貴妃によい印象を持てない。雪花の胸中は不安でいっぱいだ。

 どうにかして陛下に会えないでしょうか……

 このままでは、雪花に夜伽の番が回ってくることは永久になさそうだ。

 そうなると、密命を果たすこともできない。

 でも、それでいいのかもしれない。

 皇帝暗殺という大ごとを成し遂げられるなんて、雪花にはできそうもなかった。


 ようやく掃除を終える頃には、陽が西に傾いていた。

 昼餉を食べていないので、ひどく空腹だ。

 どうにか張青磁の許しを得て、ふたりは帰途に着く。

 良答応は『お腹が減って倒れそうだから先に帰るわね』と言い置き、俊足で部屋へ戻っていった。

 雪花はすぐに帰る気になれなくて、川沿いの道をぶらりと散策する。

 広大な後宮内には川や林がある。閉じこもった生活を送ってきた雪花は、散歩できるという自由を噛みしめた。

「綺麗……」

 黄金の甍に沈む太陽が、世界を朱に染め上げている。

 水面はきらきらと光り輝いていた。

 後宮に来てからは講義や掃除で毎日が大変だけれど、狭い小屋の壁を見続けるしかない暮らしよりはずっと充実していた。

 密命のことが頭をよぎると、憂鬱になるけれど。

 そのとき、サァ……と風が吹いた。

 川面に流麗な波紋が描かれる。雪花のほつれた髪が銀色に煌めき、風にさらわれた。

「あ……」

 髪をかき上げて、ふと川下に目を向ける。

 誰かがいる――

 はっとして、そこに佇んでいた男性の姿に瞠目した。

 眉目秀麗な顔立ちは凜々しく、知性が滲んでいる。すらりとして背が高く頑健な体躯を包む藍の旗服が、鮮やかに夕陽に映えていた。

 なによりも雪花を驚かせたのは、男性が類い希な美貌の持ち主だったからではない。確かに彼は人目を引く美丈夫ではあるのだが、思い出の中の友人にそっくりだったのだ。

 意志の強そうな切れ長の目、すっと通った鼻梁、薄くて整った形の唇までよく似ている。

「……紫蓮?」

 思わず、友人だった男の子の名をつぶやく。

 すると、川縁から夕陽を眺めていた男性はこちらを見た。彼は雪花の姿を目にして、驚きに目を見開く。

 はっとした雪花は両手で頭を覆い隠す。

 彼は雪花の白髪と赤い瞳に驚いているのかもしれない。もし本当に紫蓮なら、驚きはしないはずだ。なぜなら彼は、雪花の見た目を忌避しなかったから。

 ――人違いだった。

 彼のはずがない。友人とはいえ、もうずっと会っていないのだ。子どもの頃にたまたま知り合い、遊んだことがある仲に過ぎない。

 そう思っていたのに、彼は甘さのある掠れた声音で、こう言った。

「雪花なのだな……? 久しぶりだ」

 名を呼ばれた雪花は息を呑む。

 まさか、本当に。

「紫蓮……? 紫蓮なのですか?」

「ああ。俺だ。十年ぶりになるか。ずっと会いたいと願っていた」

 夢にまで見たことが現実になり、雪花の胸が震える。

 彼は本当に、子どもの頃に会った紫蓮なのだ。

 もう二度と会うことはないと思っていた。それなのに紫蓮は立派な青年の姿になって現れ、しかも雪花に会いたいと願っていたという。

 こんなにも素晴らしい僥倖があるだろうか。

 雪花の目に涙があふれた。

「紫蓮……私も、会いたいと、思っていました」

 優しげに微笑んだ紫蓮はこちらに歩み寄ってくる。大きなてのひらが伸ばされて、雪花の冷たい頬を包み込んだ。

 温かな手の感触に陶然とする。

 夢ではない。まぼろしでもない。

 紫蓮その人なのだ。

 彼と過ごした楽しかった日々が瞼の裏に思い起こされた。

 愛しげに双眸を細めた紫蓮は、懐かしそうにつぶやいた。

「美しく成長したな。そなたと別れるときは悲しかった。雪花に寂しい思いをさせたのではないか?」

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