第9話

 良答応は告げ口した答応を睨んだが、彼女はつんとして顔を背けた。

「そうなのか、良答応?」

 張青磁に問われた良答応は唇を引き結んでいる。居並ぶ女たちは険しい目を良答応に向けた。

 早く認めて、ひとりで掃除をしろ、と彼女たちは言いたげだ。

 この棟をひとりで掃除するだなんて無茶だ。

 雪花はとっさに口を開いた。

「あ、あの、私もお喋りをしていました」

 しん、と指導室が静まり返る。

 張青磁は胡乱な目で雪花を見やった。

「新人の蘭答応か。では、良答応と蘭答応のふたりに掃除を命じる」

「……ありがとうございます」

 ほかの答応たちから、ほっとした吐息がこぼれた。良答応は苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。


 講義のあとの指導室は、がらんとしている。

 雪花は雑巾で丁寧に柱を拭いていた。掃除の懲罰をともに受けた良答応は、ほうきを杖代わりにして凭れ、一休みした。

「ごめんねぇ。みんなで掃除してくれないかなと思って、正直に言えなかったのよね」

「言えない気持ちはよくわかります。ふたりならすぐに……とはいきませんけど、日が暮れる前には終わりますよ」

「ありがと。あんたは悪くないのに、優しいのね。……ねえ、『雪花様』って侍女が呼んでたけど、あたしも『蘭答応』じゃなく、あんたのこと名前で呼んでもいいかな?」

「ええ、もちろんです。良答応の名も教えてください」

「あたしはいいのよ。ダサい名前だからさ」

 軽やかに笑った良答応は雑にほうきを往復させる。

 彼女ひとりに掃除をさせなくてよかったと雪花は思った。この調子では張青磁の許しはいつまでたっても出なかっただろう。

 いくつもの指導室を同じように掃除し、廊下も掃き清める。そのあとはかがんで床を拭き掃除だ。やがて疲労の色を見せた良答応は、桶に汚れた雑巾を放った。

「あーあ。こんなはずじゃなかったのになぁ。後宮のお妃様になったら、美味しいもの食べて昼寝して、宦官や侍女に傅かれて贅沢三昧だと思ったのに、実際は宮女と変わりないじゃない」

「答応は一番下の位ですからね……。でも侍女はひとり付いてますから、傅かれているのでは?」

「傅かれてるうちに入らないわよ。友達みたいだもん」

 答応のすぐ下の位は宮女である。

 鈴明のような宮女たちは妃嬪ではないが、後宮にいるすべての者は皇帝の所有物とされるので、皇帝のお手つきになるなどの機会があれば、宮女でも封号されて妃嬪になれる。両者は妃嬪と宮女という確固たる隔たりはあるものの、そういった事情ゆえに上位の者から見れば限りなく地位は等しいのだ。

 彼女のぼやきは続いた。

「嬪以上の位になったら自分だけの宮に住めるし、食事も豪華になるし掃除なんかしなくていいし、周りの扱いも変わるのになぁ。皇帝の夜伽なんて面倒くさいことしなくていいから、美味しいもの食べて昼寝だけしていたーい」

 良答応の言う通り、貴人、常在、答応までは似たような待遇だが、嬪以上になるとがらりと変わる。

 その他複数という扱いから脱却し、高貴な身分として大切に扱われるらしい。

 もっとも雪花は答応たちが暮らす棟と、この指導室の往復しかしたことがないので、まったく知らない世界だが。

 あけすけに語る良答応を好ましく思った雪花は、くすりと笑った。

 雪花は自分の意思を表明することに慣れていない。そのような環境ではなかったし、雪花の意思など必要とされなかったから。

 でもこれからは、良答応のそばにいて、彼女のように言いたいことを話せるようになれるだろうか。

 ――ううん、私にはできない……

 皇帝暗殺という密命を負っている限り、自分の意思を声にするなど、許されない。籠の鳥として与えられた自分の役目をこなすだけだ。

 でも、密命に関係のないことなら、少しは自分の思いを話してもいいだろうか。

 雪花は勇気を出して呟いた。

「私も……嬪以上になって、美味しい食事を食べたいです」

 毒を食べたくない。

 このとき初めて、雪花は暗にそう言った。

 だがもちろん良答応に雪花の心中が伝わるはずはない。伝わっても困るのだった。

 良答応は楽しそうに笑った。

「あはは! 雪花は食いしん坊だもんね。でもムリよ。陛下の夜伽は、まだ誰も務めたことがないんだから、答応なんてなおさら見初められるわけないわ」

「良答応は陛下に会ったことがあるんですか?」

「ないけどね。儀式とか、園遊会には顔を出すんじゃないかな。大体の下級妃嬪は陛下の顔も知らないわよ」

「妃嬪の朝礼には来ないんですね」

「あたしがいるときは来たことないなぁ。雪花は今度の朝礼が初参加よね」

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