第8話
「まさか、変な味がしたのですか? すえていたのなら膳房に文句を言わなくては」
鈴明はさじを鼻先に近づけて匂いを嗅いでいる。今にも口に運んで味見しそうな気配に、雪花は肝を冷やす。
「お、お願いです。さわらないで。決して食べないでください!」
猛毒入りの粥なのだ。少量でも口に含んだら死んでしまう。
必死に頼み込む雪花を、鈴明は微笑を浮かべて見やった。
「ご心配なさらないでください。わたしは主の食事を奪ったりしませんよ。とてもお腹を空かせていたのですね……」
しみじみとそう言った鈴明は慈愛に満ちた顔をして、確認した椀をそっと卓に戻した。
雪花は内心で首をかしげる。
毒入りであることを鈴明は知っているはずなのに、迂闊に触れようとするのはなぜだろう。
それに鈴明が毒を入れたのなら、そういったことを匂わせる言動があってもいいはず。
それなのに、彼女は心からこれまで不遇だった雪花を哀れんでいるように見えた。初めの雪花の身なりを見れば、実家で優遇されていないことは明らかである。
「え、ええ……そうなのです。これまではあまり……食べられなかったので、こんなに美味しい食事は初めてで……」
「そうですか。雪花様のお父様は厳しい方と聞き及んでおります。なにしろ蘭王朝の末裔ですからね。雪花様も尊いご身分です。今後はわたしが精一杯お世話いたしますから、安心してお過ごしください」
「……ええ、信頼しています、鈴明」
ぼうっとしてそう返事をすると、鈴明は微笑んだ。雪花は違和感を抱えながら毒入りの粥を胃の腑に流し込む。
鈴明の話しぶりは、内通者であることを暗にほのめかしたとも取れるし、そうでないとも受け取れる。
だが、内通者なのかと直接訊ねるわけにはいかない。隣室の良答応とその侍女に会話は筒抜けだからだ。壁一枚を隔てただけなので、隣の話し声も耳に届く。
鈴明が内通者であるのだろうとは思うが、今ここで明確にする必要はなかった。
雪花はこれからも、毒入りの食事を取り続けなければならない。
密命を果たすまで――
ただひとつ、それだけは決定していることに変わりはなかった。
さじを口に運ぶごとに、雪花の唇はいっそう禍々しい真紅に染まるのだった。
雪花が後宮に来てから、数日が経過した。
妃嬪は宮廷の儀礼典礼を学ばなければならないため、雪花はほかの妃嬪と一緒に、高位の宦官から指導を受けていた。
「そこ、もっと腰を落として。目線を下げなさい。万福礼は基本の礼だ。これができていない者は上位のお妃様から不興を買うぞ」
膝を曲げて腰をかがめ、両手をそろえて左の腰に添える。
指導室にずらりと並んだ答応たちは、いっせいに万福礼の姿勢をとった。
答応は最下級の位のため、自分よりも上位の妃嬪に会ったら必ず万福礼をしなければならない。後宮はなによりも位階が重視される世界であると、雪花はここ数日の講義で学んだ。
宦官の張青磁は厳しい眼差しで、碁盤のようにきっちりと並び、同じ礼をとっている答応たちの間を縫い歩いた。
雪花の隣で完璧な万福礼を見せている良答応は、こっそり囁く。
「上位のお妃様っていうのは栄貴妃のことよ。張青磁は栄貴妃の腰ぎんちゃくなんだから」
その台詞に、雪花の前に並んでいた答応が、ぷっと噴き出す。
張青磁がぎろりとこちらを睨んだので、彼女は俯いた。
「よろしい。次は拝礼をしなさい。皇帝陛下にお会いするときは必ず拝礼すること。万福礼もそうだが、指図を受けるまで礼を解いてはいけない」
答応たちは跪き、頭を下げた。膝をつくのは最敬礼の形であるので、皇帝や後宮の主、または両親にしかしない礼である。
嘆息した良答応は愚痴をこぼした。
「あたしたちが陛下に会えるわけないじゃない。上位の妃嬪にだって、たまにしか顔を見せないっていう噂なのに……」
「そこ!」
鋭い声が飛び、カツカツと靴底を鳴らした張青磁がこちらにやってきた。
首を竦めた良答応は口を噤む。
「お喋りをしていたのは誰だ? 礼儀知らずの答応には罰を与える」
罰を与えられると聞いて、雪花の周囲にいた者たちは黙り込んだ。
どうしよう。正直に答えるべきだろうか。けれど告げ口をするのはどうかと思う。良答応が自分から名乗り出るべきかとは思うが、もし懲罰が重いものだったらと考えると、彼女も言いたくないだろう。
雪花が迷っているうちに、黙っている答応たちの顔を見回した張青磁は冷酷に言い放った。
「では全員で、すべての指導室の掃除を行いなさい。宦官の控え室も、厠もだ。わたしが許可するまで部屋に戻ることは許さない」
指導室のある棟はとてつもなく広い。普段は当番制で使用した指導室の掃除を行っているのだが、すべてとなると日が暮れてしまいそうだ。
答応たちの間から「ええ~⁉」という悲鳴があがる。
すると、雪花の前にいた答応が張青磁に訴えた。
「お喋りをしていたのは良答応です! わたしたちが罰を与えられるいわれはありません」
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