第6話

「えっ……誰も、ですか?」

「そうよ。大貴族の娘である栄貴妃でさえも、一度も夜伽に呼ばれたことがないの。市井では皇帝が女嫌いと有名だけどね、それじゃあ男色なのかって思った宦官は、稚児を宛がって降格させられたってさ」

 なんと、皇帝が女嫌いだという噂は真実だったらしい。

 幾人もの妃嬪がいるというのに、誰とも閨をともにしたことがないのは驚きだ。しかも耀嗣帝は二十四歳という若さである。

 手布を取り出した良答応は、蝶のようにひらひらと振った。彼女の爪飾りが陽の光に輝く。

「あたしたち、なんのためにここにいるのかわからないわよね。もちろん陛下が答応の住まいを訪れたことなんか一度もないしね。あたしはけっこういいところのお嬢様なんだけどさ、まさか答応の住まいがこんなに狭くて質素だなんて思いもしなかったわ。食事も少ないしさ」

 話し相手がほかにいないのか、良答応は愚痴を吐き続けた。

 皇帝は答応はおろか、妃嬪のすべてに見向きもしないようだ。

 そうすると、上位の妃嬪たちは皇帝の気を引くために懸命になって様々な手を試していると思われる。子を授かるのは妃嬪としての役目だからだ。寵妃になれれば実家も恩恵が得られるし、もし皇子が生まれたなら、次の皇帝の生母になれる可能性もある。

 雪花は溜息を吐いた。

 それは絶望であり、微量の安堵も含まれていた。

 良答応の話を聞く限り、雪花が夜伽をできる機会はないだろう。つまりそれは、父の計画が頓挫することを意味する。そうなったなら、雪花は人殺しにならずに済む。

 だが、蘭家の再興を渇望する父母がそれで納得するだろうか。

 雪花が馬車に乗り込む直前に、父はこう言った。

『後宮にはすでに内通者をもぐり込ませている。おまえがその者と連携を取る必要はない。内通者はいつでもおまえを監視している。くれぐれも計画の実行を踏み留まろうなどと思うな』

 内通者とは、何者なのだろう。父の部下と考えるなら、蘭家につながりのある人物と思われるが……

 雪花はずっと話し続けている良答応を見やった。

 彼女は蘭家とのつながりはないだろうが、出身がどこか聞いてもよいだろうか。

「――それでね、そのとき栄貴妃に口答えした答応が棒叩きの刑になったのよ。栄貴妃には逆らわないほうがいいわよ。父親が大監だからって、偉そうなんだから……っと、それじゃあね」

 出身地を訊ねないうちに、良答応はおしゃべりをやめて素早く自室に戻った。

 見ると、通路を蘇周文と侍女が連れ立ってやってくる。

「お待たせしました、蘭答応! こちらがあなたの侍女の……」

「侍女の鈴明です。よろしくお願いします、蘭答応」

 鈴明と名乗る侍女は雪花より年上に見える、優しそうな女性だった。

 侍女を連れてきた蘇周文は「それでは」と言い置いて、踵を返しかけたが、ふと告げる。

「またお会いできることを祈ってますよ。この間も答応がひとり減ったばかりなので」

 雪花は、ひやりとした。

 それは良答応が話した、栄貴妃に懲罰を食らったという妃嬪のことだろうか。

 後宮の妃嬪は、役人と同じで功績を上げたなら昇格し、皇帝の不興を買ったら降格する。大罪を犯した妃嬪は冷宮送りになることもあるという。

 雪花はこれから皇帝暗殺という大罪を犯す予定だが……

 寒々しい思いで蘇周文の背を見送っていると、鈴明が手にしていた籠を下ろした。そこには宮廷から支給されたと思しき服が入っていた。

「さあ、お着替えになってください。……あら、はだしじゃありませんか! 布で足裏を拭いてから、靴を履きましょう」

 ぼろぼろの服から、清潔な桃色の旗服に着替えた。濡れた布で足裏を拭いてもらい、綺麗になった足に底の高い靴を履かせてもらう。髪を梳かされ、両把頭に結い上げた。

 甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる鈴明に、雪花の胸が温まる。

 しかも鈴明は、白髪で赤い目の雪花を見ても、嫌な顔ひとつしなかった。

「美しい銀髪です。陛下が見たら一目惚れしますね」

「……そんなことはないです……」

 実家では、老婆のように醜いと、散々継母に詰られていた。それなのに、鈴明は雪花の白髪を褒めてくれた。誰かに褒められるのも、こうして世話を焼いてもらうのも、閉ざされたこれまでの暮らしではありえなかった。雪花は亡くなった母を思い出した。鈴明は母の優しさに似ている。

 整えられた姿を銅鏡に映した雪花の顔に、薄い笑みが浮かぶ。

「ありがとう、鈴明。私のことは名前で呼んでください」

「それでは、雪花様とお呼びいたします。それから、わたしは雪花様の侍女ですから、わたしに対して丁寧な口調で話さなくてよろしいのですよ?」

「これは……私の癖のようなものなのです。このままでお願いします」

「心得ました。わたしは蘭家の遠縁にあたりますから、姉妹と思ってなんでも申しつけてくださいませ」

「そうなのですね。頼りにしています」

 入宮する際、令嬢は実家から侍女を連れてくるものなのだが、雪花はひとりだった。

 けれど遠縁の鈴明が蘭答応付きの侍女として配属されたらしい。

 侍女の鈴明がいてくれて、隣には気さくな良答応がいる。不安だらけだった後宮での暮らしも、どうにかやっていけるかもしれないと雪花は思った。

 まもなく食事の時間になり、食事係の宦官が取っ手のついた食盆を持ってくる。鈴明は宦官から盆を受け取った。椀の蓋を開けると、そこには美味しそうな粥がよそってある。それから小さな蒸籠には点心と、皿に盛られた蒸し鶏もあった。

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