第5話

 鞭を下ろした上官に、部下は小声で囁いた。

「書類が本物か、念のため確認いたします」

「う、うむ。どうせ偽造だろうがな。確認してこい」

 書類を手にした部下は門内へ駆けていった。上官は苛々と靴先で地を叩いている。

 その間、行列に並んだ人々はじっとその場に佇んで自分の番が来るのを待っている。

 雪花が跪いているところからは門内がよく見えるが、どうやらこの門は金城のもっとも手前にある入り口のようだ。

 広場のさらに向こうにはまた大きな門があり、官吏が出入りしている姿が見て取れる。御用聞きの商人は奥までは行けないのだろう。後宮は奥に鎮座する宮廷の、さらにその先だ。 

 ややあって、先ほどの部下が戻ってきた。彼は慌てた様子の宦官を連れている。

 宦官は男性器を切り落とし、後宮の妃嬪に仕える官職である。

 男性の機能を失っているので、線の細い女性的な者が多い。

 駆けつけた部下は上官に報告した。

「間違いありませんでした。蘭答応だそうです」

「な、なんだ。最下級の答応じゃないか。――もういいぞ、通れ。おい、次!」

 上官は気まずそうに視線をさまよわせ、雪花を追い払うように手を振った。

 誤解だったので入ってもよいのだとわかり、ほっとする。

 後続の人の邪魔になるので、立ち上がった雪花は門を通り抜ける。

 貸馬車はここまでになるので、馬首を巡らせて帰っていった。

 部下の兵士とともに来た宦官は、雪花に拱手する。

「お待ちしておりました、蘭答応。後宮へご案内いたします」

「はい。よろしくお願いします」

 雪花は宦官に頭を下げた。

 答応とは、妃嬪の役職名のひとつである。

 瑞王朝の後宮制度は皇后のほか、皇貴妃、貴妃、妃、嬪、貴人、常在、答応と八つの役職に分類されている。定員は皇后と皇貴妃が一名ずつ、貴妃二名、妃は四名、嬪は九名が基本だ。それ以下の位は定員がない。正妻は皇后のみであり、あとはすべて妾である。だが耀嗣帝には皇后がいないので、現在はもっとも高位の栄貴妃が後宮を取り仕切っている。

 それらのことを後宮へ向かう道すがら、案内してくれた宦官が話した。

「答応はもっとも下位の妃ですから、上位の妃嬪にはもちろんのこと、高位の宦官にもお辞儀をしなければなりません。後宮は礼節を大事にする場所ですから、位階を守らないと懲罰がありますので気をつけてくださいね」

「はい、わかりました」

「ちなみにわたしは蘇周文と申します。見ての通り雑役係ですので、お辞儀はいりませんよ。といっても偉そうにされても困りますけどね」

「そうなんですね」

 生真面目に返す雪花に、彼は物言いたげだったが、口を噤んだ。

 いくつもの門をくぐり抜けると、やがて広い通りに面した棟の前に辿り着く。

「こちらが答応の住まいになります。蘭答応の部屋は……ここですね」

 ひとつの棟に、ずらりと同じ意匠の扉と窓が付いている。長屋のようなそこに、すべての答応がひとり一室ずつを与えられるのだ。

 蘇周文はその中のひとつである空き部屋に案内した。

 玄関や前室などはなく、敷居を跨ぐとすぐに簡素な卓と椅子が置いてある。部屋が狭いので、その家具だけでいっぱいだった。隣の寝室も寝台が置いてあるだけで、ほかに身の置き場がないようだ。ひとつの棟を割っている居室なので、当然かもしれない。

 実家から持ってきた荷物などない雪花には、身ひとつなのでどうということはないが。

 これでは輿入れだと勇んで大荷物で後宮入りすると、大変かもしれない。

 蘇周文が簡素な椅子を引くと、ギッと軋んだ音が鳴る。

「どうぞ、おかけください。……侍女がいないな。ちょっと呼んできますね」

「お願いします」

 侍女を付けてもらえるようだ。椅子に腰を下ろした雪花は、ひと息つく。

 扉には鍵がついておらず、窓にも格子などない。

 籠の鳥ではあるけれど、自由に屋外には出られるのだ。そのことに感動した。

 ただ、馬車に乗り込む直前に父から念を押された言葉が気になってはいるが――

 脳裏を掠めたそのとき、隣から声をかけられて、ぎくりとする。

「ねえ、あんた。蘭答応ってことはもしかして、前王朝の末裔なの?」

「え、あの……」

 声のしたほうを振り向くと、若い女性が窓から顔を出していた。隣室はとても近いので、蘇周文との会話は丸聞こえだったろう。

 女性は自室の敷居を跨ぐと、雪花の部屋の前までやってきた。わずか数歩の距離である。

 髪を両把頭に結い、品のよい旗服を着た若い女性だ。きっと良家の子女なのだろう。

 だが女友達がいたこともない雪花はなにを話せばよいのか、わからなかった。

「あたしは良答応よ。よろしくね」

「よろしくお願いします、良答応。私は蘭雪花と申します」

「あはは。ここでは家名と役職で呼ばれるから、今日からあんたは蘭答応よ。それにしてもあんた、すごい格好ね。奴婢じゃあるまいし……もしかすると、変わった格好で陛下の気を引こうだとか、そういう作戦なの?」

「いえ、そんなことはありません」

 好奇心が旺盛らしい良答応は、雪花の姿を見て目を輝かせた。あけすけに語る彼女に悪気はないらしく、ころころと笑っている。

「でもね、陛下の夜伽を期待しても無駄よ。この後宮の誰も、龍床に侍ったことがないんだもの」

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