第46話

 よもや幻影かと思ったが、彼はオスカリウス本人だ。

 オスカリウスは、わざわざ手袋を外すと、白銀の髪に触れているセラフィナの手を握りしめる。

「そう。俺は月の騎士だ。狼の生贄に捧げられてしまう愛しい姫を、さらいにやって来たのだよ」

「まあ……」

 彼とともに行けるのだろうか。

 はっとしたセラフィナは、なぜジュペリエが靴とコートを預けたのかわかった。

 おそらくジュペリエは、オスカリウスが離宮へやって来たことに気づいたのだ。そして懐妊指導官である彼は、セラフィナが今夜の夜伽を望んでいないことを察したのだろう。

 オスカリウスは悪戯めいた目をして、ウインクをする。

「狼がやって来る前に、あなたを連れ出すよ。心の準備はいいかい?」

「ええ、もちろんよ」

 セラフィナはブーツに履き替えて、毛皮のついたコートを羽織る。

 そうしてから窓辺で両腕を広げているオスカリウスに、自らの両手を差し出した。

 ひょいと強靱な腕に持ち上げられ、セラフィナの体は容易く窓から出られた。

 ふたりは手を取り合うと、森へ向かって駆けていく。

 吐く息は白く、鼓動が高鳴る。

 まるで逃避行のようだ。セラフィナは昂揚した胸を押さえきれない。

 さらさらと粉雪が舞い散る森は、静謐に沈んでいた。

 純白に染め上げられた木立が、青い闇に佇んでいる幻想的な世界だ。

「森を抜けると小さな丘がある。そこからなら、月が綺麗に見えるよ」

「素敵ね。夜に出歩くなんて、初めての体験だわ」

 夜の国は別世界のように見えた。

 けれど、オスカリウスとつないだ手の温かさと、彼の深みのある声音が心強く、ちっとも怖くはない。

 ややあって森を抜けると、開けた場所に出る。

 そこは丘があり、整備された石段を登る。夏は皇族がピクニックなどに利用するところなのだろう。冬の夜に訪れる者は、もちろん誰もいない。月の騎士と、さらわれた姫くらいのものだ。

 丘の頂上へ辿り着くと、壮大な景色が見渡せた。

 一面に広がる深い森の向こうには、いくつもの明かりが灯された宮殿が見える。

 その光景を天空の月が、煌々と照らしているのだ。

 藍の天鵞絨に覆われた空には、大粒の星たちが瞬いていた。

「なんて綺麗なの……。こんなに美しい景色は初めて見たわ」

「喜んでくれてよかった。寒くないかい?」

「ちっとも。あなたと手をつないでいるから、温かいわ」

「もっとそばへおいで。風邪を引くといけないから、抱きしめていよう」

 肩を引き寄せられ、オスカリウスの腕の中に包まれる。

 彼は後ろからセラフィナを抱きしめた。ふたりのつながれた手に、オスカリウスはもう片方の手を添えて、ぎゅっと包み込む。

 冷たい夜の中、愛しい人のぬくもりが心を温める。ざわめいていた鼓動は安堵により、嘘みたいに落ち着いた。

 ふたりは言葉もなく、柔らかな月の明かりに照らされた光景を眺めた。

 会話がなくても、オスカリウスとは気まずさなど感じなかった。

 同じものを見ていられること、そして互いの体温を共有していることの大切さを噛みしめる貴重な時間を過ごした。

 やがてオスカリウスは、深みのある甘い声で語り出す。

「俺は懊悩があるときは、深夜にここへ来て、この景色を眺めている。心が洗われるようだからね」

「オスカリ……月の騎士にも、悩みごとがあるの?」

「もちろん。愛する人をどうやって振り向かせようとか、どうやって彼女と結婚しようだとかね。俺には好きな人がいるのだが、彼女は仕事に一生懸命で、そんなところも好意を抱いているのだけれど、どのように距離を縮めていったらよいのか、これまで苦悩していた」

「……そうなのね」

 オスカリウスには、思い人がいるのだ。

 それは、誰なのだろうか。

 彼の好きな人は、私ではないのね……。

 もしセラフィナがオスカリウスの好きな人だったとしたら、本人に恋愛相談はしないと思える。相手はセラフィナの知らない令嬢だろうか。

 こっそり落ち込んでいると、オスカリウスは抱きしめている腕に力を込めた。

「俺の好きな人に、くちづけをしてもいいだろうか」

「……え? もちろん、私の許可を取る必要なんて、ないわ」

 紺碧の双眸を瞬かせたオスカリウスは、セラフィナの頤を指先で掬い上げる。

 彼の瞳には、玲瓏な月が映り込んでいた。

「許可は……いらなかったかな。俺の愛しい人」

 魅入られたように、オスカリウスの瞳の中の月を追いかけた。

 柔らかな唇が触れ合い、セラフィナはそっと目を閉じる。

 初めてのキスは、淡い雪の味がした。

 オスカリウスの好きな人は、私――。

 その事実を知り、胸が熱くなる。

 好きな人が自分を好きでいてくれた。それはとてつもなく奇跡的な幸福だった。

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