第34話

「皇女さま……! でも、ぼくたちが働いても返せるお金なんて……」

「大丈夫よ、心配しないで。まずはゾーヤが元気になることが、いちばん大事でしょう?」

 はっとしたルスランは、ゾーヤの顔を見る。

 彼女は痛みに唇を震わせていた。

 始めの頃は激痛を訴えていた彼女が、うわごとをつぶやくようになったのは、痛みを忘れるためと、兄に心配をかけさせないためなのだ。

「ゾーヤ……おまえを入院させてもいいか? 足が治ったら、また店に立てるから」

 小さく頷いたゾーヤは、涙に濡れた瞳を兄に向けた。

「うん……。そうしたら、父さんと母さんは帰ってくる?」

「……父さんと母さんは……。おまえが元気になったら、ぼくの話を聞いてほしい」

 唇を噛みしめたルスランは、うつむいた。

 彼はまだ、両親が亡くなったことを妹に伝えられていないのだ。

 そんなふたりを、セラフィナは切ない思いで見つめる。

 彼らに希望を見出してもらうためにも、なんとしても世の中を変えなければならないと心に刻んだ。


 ひとまずゾーヤを入院させたセラフィナは、宮殿へ戻ってきた。

 そこでさっそく女帝に謁見を申し出る。

 保険制度の創設について進言するためだ。

「俺も同席してもよいだろうか。もちろん、陛下とセラフィナの会話の邪魔はしないが、もし反対されたときには手助けしたい」

「ありがとう。お願いするわ、オスカリウス」

 オスカリウスがいてくれたなら心強い。セラフィナは彼とともに、ヴィクトーリヤの執務室へ向かった。

 飴色の扉の前に待機している侍従が、声をあげながら金色のドアノブを開く。

「皇女殿下、ならびにレシェートニコフ大公殿下がいらっしゃいました」

 女帝の執務室は重厚な調度品に囲まれながらも、気品に満ちた趣のある室内だ。

 マホガニー製の執務机に向かっていた女帝は、ふたりの来訪に羽ペンを置いた。

「どうしたの、ふたりとも。わたしの喜ぶ報せかしら。たとえば、懐妊しただとか」

 セラフィナは微苦笑を浮かべる。

 女帝が懐妊を望んでいるのは承知しているが、オスカリウスとはまだ男女の契りを結んだことすらないのだ。

「残念ながら、陛下。今日はその用件ではありません。ぜひ、保険制度の導入について検討していただきたいのです」

「保険制度ですって? なぜ急に、そんなことを言い出すのかしら」

 セラフィナは事情を説明した。

 街へ行き、ルスランとゾーヤの兄妹に会ったこと。

 彼らのように不幸な目に遭い、怪我や病気で生活に困窮してしまう人々はたくさんおり、救済策が必要と感じたこと。

「私はすべての国民を救いたいです。そのためには、国民が保険に加入できる制度を創設し、医療費を国費でまかなうのが最適と考えます。実現したら、国民が不意の事故や病気で困窮する状況をなくせます。すなわち、みんなが幸せになれて、安心して暮らしていけるのです」

 熱を帯びるセラフィナの説明を、女帝は冷めた様子で聞いていた。

 彼女はかけていた片目眼鏡を外す。

「理屈はわかったわ。でも理想論ね」

「確かに理想ですが、実現可能です。私の前世では、そういった国の制度があったんですから」

「前世ですって? セラフィナは前世を覚えているというの?」

「そうです。保険制度は私のアイデアではありません。実施している国の制度を利用して、私は病院に通えました。その記憶を頼りに導き出した方法なのです」

「まるで伝説の聖女ね……」

 女帝は深い溜息をついた。セラフィナの意見にすぐに賛同してくれるとも思っていなかったが、保険制度への印象はかなり悪いようだ。

 背後に控えていたオスカリウスは女帝へ進言する。

「俺はセラフィナの考えに賛同します。彼女が前世の記憶を持っているということも信じます。不幸な国民を見捨てることはできません。ぜひ陛下には、国民のための保険を新設することを承認していただきたいのです」

「あなたたち、簡単に言うけれどね、その制度にいくらお金がかかると思うの。国庫は空ではないけれど、潤沢でもないのよ。国民すべての医療費を国費から捻出するですって? その財源はどうするの」

 返す言葉がないセラフィナは、オスカリウスと顔を見合わせる。

 財源についてのあてはなかった。

「すでに税金を徴収していますよね。そこから捻出できないでしょうか」

 そう答えるセラフィナに呆れた顔をした女帝は、侍従を手招く。

「財務大臣を呼んでちょうだい」

 ややあって、老齢の財務大臣が入室してきた。

 女帝は全国民の医療費を皇国が負担した場合、具体的にいくらの金額が年間に必要なのか問いかける。大臣は困った顔をしてハンカチを取り出し、汗を拭いた。

「今すぐに陛下の求める金額を申し上げることは難しいですが……全国民の分となると莫大な金額になります。今年度は砦や橋をいくつも造成しており、国庫には余裕がありません。銀鉱山をバランディン王国に譲ったばかりですし、節約しませんと……」

 首を竦めた大臣は、ちらりとセラフィナの顔をうかがう。

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