第30話

 オスカリウスの案内に従って、綺麗な石畳の敷かれた街路を行く。

「こちらは俺が懇意にしている仕立屋だ。セラフィナのドレスも、ここに依頼したのだよ」

「まあ、そうなのね」

「あちらはパン屋。俺が学生時代によく買い食いをしていた店だ。従者をまくために路地裏を走ったのは懐かしい思い出だよ」

 くすくすとセラフィナは笑いをこぼす。

 大公として凜然としているオスカリウスにも、そのようなやんちゃな面があったなんて微笑ましい。

 オスカリウスは苦笑いを見せた。

「黒歴史を露呈してしまったかな? 当時は執事が大学院に付き添っていてね。うちのじいやは『買い食いなどとんでもない』と言って、俺が脱走しないか目を光らせていたのだよ。そのため昼休みの時間には、追いかけてくる従者との鬼ごっこが始まったわけだ」

「ふふ。その光景が目に浮かぶようだわ。楽しそうね」

「その通り。楽しかったね。宮殿に閉じこもっていたら、俺は誰がパンを焼いているのかすら知らずに過ごしていただろう。だからこうして町歩きをするのは、貴重な経験になると思う」

「それじゃあ……あのパン屋を訪ねてもいいかしら?」

 上目でうかがうと、オスカリウスは口角を吊り上げた。

「もちろんだ。俺も店に入るのは学生時代以来になるよ」

 オスカリウスが学生のときに訪れた店で、同じ体験ができることに、セラフィナは胸を弾ませる。

 彼の体験したことを通して、オスカリウスをもっと知りたいから。

 オスカリウスはパン屋の扉を開いた。

 カラン、と流麗なドアベルの音色が鳴り響く。

「いらっしゃいませ!」

 声をかけられたことに、セラフィナは驚いた。

 そういえば、お客さんが入店したときは、店員が声をかけるものなのだ。前世の記憶の通りだった。

 明るい店内には様々な種類のパンが、バスケットに入って並べられている。どれにしようか迷ってしまうほどだ。

 とても美味しそうな匂いが漂い、セラフィナのお腹がくうと鳴った。

 店の奥にはパンを焼くための窯と、そばの作業台がある。棒で粉を伸ばしていた恰幅のよい男性がこちらに気づき、喜色を浮かべて顔を出した。

「オスカリウスじゃないか! 久しぶりだね」

「こんにちは、ご主人。元気そうでよかった」

「氷の大公と名高いが、しっかり彼女連れかい! 彼女さん、オスカリウスはこう見えて気のいい男なんだよ。冷たいのは顔だけだ」

 気さくなやり取りに、セラフィナは小さな笑いをこぼした。

 ご主人はオスカリウスが大公と知っていても、かしこまることはなく、店の常連として接しているのだ。

 オスカリウスは額に手を当てると、困ったように微苦笑を見せた。

「ご主人には、かなわないな」

「オスカリウスは『氷の大公』と呼ばれているのね」

「ああ。市井ではそのように評されているようだね。異名のようなものだ。真顔だと冷たそうに見えるのだろう」

 それもオスカリウスの美貌ゆえということではないだろうか。

 白銀に煌めく髪と紺碧の瞳を持ち、精悍な顔立ちはさながら、氷原を駆ける狼のような勇猛さを思わせる。

 けれどその心が優しいことを、セラフィナはよく知っていた。

「さあ、セラフィナ。パンを選ぼうか。俺のお勧めは白パンかな」

「美味しそうね。それじゃあ、白パンをふたつと……」

 セラフィナは店内の隅に置かれていたトレーとトングを手に取った。

 トングを操り、ふたつの白パンをトレーにのせる。

 それを目にしたオスカリウスは、驚きの表情を見せる。

「どうかした?」

「いや……慣れているので驚いたのだ。初めてパン屋を訪れる貴族は、パンを指差して購入を店員に伝えようとするのだよ。召使いにそうするようにね」

「あ……」

 はっとしたセラフィナは、なぜ無意識にトングとトレーを手にしたのか気がついた。

 前世の記憶の中に、常識として染みついていたのだ。

 やはりパン屋に入ったことがあって、こうするのが当然という感覚が残っていたのだろう。

「前世の記憶に従ったのよ。そこで私はパン屋に入って、やっぱりこうしてトングとトレーを手にしたことがあるんだわ」

「なるほど。異なる世界であっても、パン屋ではそういった形式になっているのだね。大変興味深いものだ」

 オスカリウスは真面目に頷いた。

 セラフィナの前世の記憶は社畜だったり、羽鳥さんとは結ばれなかったりと悲しい思い出ばかりだが、こうした日常的な行動も含まれるのだと知った。役に立ったのだとしたら、ほんの少し嬉しくなる。

 考えてみれば、前世のことを思い出さなかったら、セラフィナは世間の常識をなにも知らないままだったろう。祖国では、ほぼ幽閉に近い形で青春時代を過ごしたのだから。

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