第9話
服装から察するに、彼は侍従ではありえなかった。
だが、セラフィナは彼に見覚えがあったのである。
「は、羽鳥(はとり)さん……⁉」
とっさに口をついて出た名前は、前世の記憶の中にある男性のもの。
同じ会社の同僚で、社内随一のイケメンエリートだった羽鳥さんに、目の前の彼はそっくりなのだった。
大きなてのひらを差し出した男性は、悠然と告げる。
「申し遅れたね。俺の名は、オスカリウス・レシェートニコフ大公。よろしくお見知りおきを。セラフィナ王女殿下」
大公ということは、皇族である。オスカリウスと名乗った男性はおそらく、女帝の甥だとか、そういった立場だと思われた。
「ご、ごめんなさい。知り合いによく似ていたものだから、名前を間違えました……」
戸惑うセラフィナに、オスカリウスは美麗な笑みを返す。
「気にしないよ。それよりも、俺のエスコートを受けてはくれないのだろうか」
「あっ……」
オスカリウスはセラフィナを馬車から降ろすために、手を差し出したままなのである。それを無視されるのは男性として屈辱なのだ。
セラフィナは『王女殿下』と呼ばれて礼を尽くしてもらえるのも、誰かにエスコートしてもらうのも初めてのことなので、作法をよく知らなかった。
ぎこちなくオスカリウスの手に、自らの手をそっと重ねる。
セラフィナの手をほどよい力加減で握りしめたオスカリウスは、空いたほうの腕を伸ばして腰を支えると、セラフィナを馬車から降ろした。腰に添えられた手も、必要以上に体に触れない。完璧な紳士のエスコートだ。
なぜかセラフィナの胸はどきどきと高鳴ってしまう。
男性に免疫がないせいかもしれない。
オスカリウスは手を離すと紳士の作法として、曲げた肘を軽く突き出した。
エスコートされる淑女は、男性の肘に手をまわして歩くのだ。
「あ、ありがとう。レシェートニコフ大公」
礼を述べると、オスカリウスは柔らかな微笑みを返してくれた。
「どういたしまして。俺のことは、オスカリウスと名で呼んでほしい」
「そ、そうね。では私のことも、セラフィナとお呼びください」
「ありがとう、セラフィナ。俺にかしこまらなくてよいのだよ。なにしろ俺は、あなたの未来の夫なのだから」
「……えっ⁉ どういうこと?」
「それについては、のちほど詳しい説明があるだろう。――さあ、まずは宮殿へ案内しよう。長旅で疲れただろうが、陛下があなたの到着を待ちわびていたよ」
オスカリウスに連れられて、セラフィナは裏口から宮殿へ入った。正面まで歩くには遠すぎるのである。
ブデ夫人は突然の大公の登場に口を閉ざし、苦虫をかみつぶしたかのような顔をして後ろをついてきた。
「あの……オスカリウス」
「なにかな」
「どうしてあなたは裏口で待っていたの? 偶然、通りかかったのかしら」
『未来の夫』という彼の発言も気になるが、なぜ大公のオスカリウスが裏口にいたのか疑問に思った。
オスカリウスは銀色の長い睫毛を瞬かせると、茶目っ気たっぷりに片目をつむる。
「それはね、正面玄関で待っていたのだけれど、馬車が方向を変えたので猛然と走って裏口へ駆けつけたというわけだよ。俺がこっそり息を整えていたことは、ふたりだけの秘密にしてほしい」
「まあ……わかったわ。秘密ね」
セラフィナが微苦笑を浮かべると、オスカリウスはいっそう笑みを濃くした。
外見からは冷徹な王子様のように見えるオスカリウスだけれど、親しみの持てる言動に安心感を覚える。
そんなところも羽鳥さんに似ているわ……。でも、別人だものね。
会社の同僚だった羽鳥さんに、前世のセラフィナは片思いをしていた。
だが、誰にでも親切でイケメンの彼を狙うライバルは多く、凡庸なセラフィナが羽鳥さんとふたりきりになるきっかけなど一度もなかった。
やがて羽鳥さんは社内で一番人気の秘書課の美女と付き合い、セラフィナは失恋したのだった。
告白すればよかったかもしれないが、セラフィナにその勇気はなかった。羽鳥さんからあえてデートの誘いなどがなかったことからも、彼がセラフィナに特別な気持ちを持っていなかったことは証明されていた。
――平凡な容姿の私に、イケメンの羽鳥さんが声をかけるわけがない。
イケメンは美女としか付き合わないという世間の常識に、やはり羽鳥さんも当てはまっていたので、結局は告白しても無駄だったのだと諦めたのである。
前世の悲しい記憶が、オスカリウスに接触したことにより、怒濤のごとく流れ込んでくる。
羽鳥さんとは縁がなかったが、今はこうしてオスカリウスに微笑まれ、エスコートされるなんて夢のようだった。
これきりかもしれないが、ふわふわと浮き立つような心地よい気持ちになったのは久しぶりで、頬が綻ぶ。
やがてオスカリウスの案内で長い回廊を抜けた。
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