第51話
確かに一歩間違えば危険な状況ではあったけれど、真由華に連れ出された時点で玲央は廊下に待機し、咲夜はすでに倉庫に潜んでいたのである。もし貴臣がすべてを知っていたら先に真由華や牧島を問い詰めてしまい、作戦の成功はなかったかもしれない。結果としてすべてうまくいったので、よしとしてもらいたい。
つと盃を置いた貴臣は、私の肩を引き寄せた。
「おまえら、今日はご苦労だった。好きなだけ酒を飲め。俺たちはそろそろ休む」
そう言って貴臣は、軽々と私の体を横抱きにする。
祝宴の行われている主屋から渡り廊下へ出ると、彼は足早に離れへと入っていった。そのまま寝室へと連れ去られてしまう。
貴臣……怒ってるんだわ……
強靱な腕の中で身を小さくした私は、すとんと寝台に下ろされる。怒りを帯びた双眸で見下ろしてくる貴臣を、おそるおそる上目で見た。
「あの……そんなに怒らないでほしいの。すべての計画を明かさなかったのは、貴臣に心配をかけないようにという配慮だったの」
「それはよしとしよう。俺が怒っている理由は、葵衣のこれまでの秘密主義にある」
「えっ? ほかに貴臣に秘密にしていることなんて……あ……」
思い当たることがある私は口元に手を当てる。妊娠していることは、まだ貴臣に伝えていないのだ。
そんな私の仕草を見た貴臣は、いっそう眉間の皺を深く刻んだ。
「葵衣は俺と結婚すると心に決めたんだろう? だったら、隠し事はなしにしようじゃないか」
「ええ……そうよね」
「そこでだ。今こそ、おまえに聞きたいことがある」
「え……なにかしら?」
金の薔薇が描かれた漆黒の着物は、未だに片肌を脱いでいた。露わになった私の肩を、貴臣は覆い隠すようにてのひらでさする。
「お守りの代わりに、俺にしてほしいことがあると言っただろう。あの答えを教えてくれ。今すぐにできる簡単なこととは、いったいなんだ?」
そういえば、背中の彫り物を見せてほしいという願いを内緒のままにしていた。あのときは極道の花嫁になる決心ができていなかったから、臆して言えなかったのだ。貴臣のことを信じきれなかった私がいけないのに、謎かけのようなことを言って、ひどく彼を悩ませてしまったようである。
でも、今なら言える。
私は貴臣の花嫁になるのだから、彼のすべてを受け入れたかった。
「あれは……貴臣の、背中を見たかったの」
「……背中を? それがどうしたんだ」
なぜ背中を見せるのに躊躇しなければならないのかと言いたげに、彼は目を瞬かせている。
「彫り物が、あるでしょう? あなたの背中の彫り物は極道の証だから、堅気のまま実家に戻る私には見せられないのだと思って、言えなかったのよ」
説明を聞いた貴臣は脱力して、私の両方の肩に手を置いた。彼の嘆息した吐息が鼻先にかかる。
「あのな。おまえの想像の中の俺はどれだけ繊細なんだ? 見せて減るもんじゃあるまいし、背中なんかいくらでも見せてやる。まさかそんなにも簡単なことだとは思わなかったぞ」
「ごめんなさい。見てしまったらもう戻れないとか、いろいろ思い悩んでしまったの」
貴臣は纏っていたシャツを、ばさりと脱ぎ捨てる。さらにスラックスと下穿きも下ろした。彼の彫り物は、腰から太股にまで模様がある。
「見ようが見まいが、おまえは俺の女なんだよ。ほら、しっかり見ろ」
貴臣は堂々と背を向けた。そこに描かれた彫り物を、私は目を見開いて焼きつける。
一匹の虎が、炯々とした双眸を光らせてこちらを射貫く。
猛虎は今にも動き出しそうな躍動感に満ちあふれていた。まるで勇猛な虎が、竹林から獲物を見定めているかのような緊張感がある。
純粋に美しく、そして勇壮な刻印だった。
ついに貴臣の背中を見ることができた喜びが溢れて、ほうと感嘆の息を吐く。
「綺麗ね……。見せてくれて、ありがとう」
「いつでも見ていいんだぞ」
彼を信じているからこそ、最後の秘密を打ち明けなければならない。
私は虎の瞳に唇を寄せながら、小さく告げた。
「貴臣……実は、あなたに秘密にしていたことがあるの。婚約披露パーティーが終わったら打ち明けようと思っていたのだけれど……とても大切なことなの」
「わかった。今すぐに言え」
堂々と言い切る貴臣に、お腹の中に命が宿っている事実を告白しようと、私は口を開いた。
「赤ちゃんが……できたの」
ぴくりと虎が揺れた。
後ろを振り向いた貴臣は、瞠目している。
彼は驚きを浮かべたまま私と向き合うと、両方の肩を抱いて顔を覗き込んできた。
「そうか、できたか。……だが、いつわかったんだ?」
「ピアノを贈ってもらったときね。あの日、体調不良で病院へ行ったでしょう? 妊娠していると、産婦人科のお医者さまに言われたの」
「俺が入院する前じゃないか! どうしてひとりで抱えていたんだ」
「心配させたくなかったの。襲撃した犯人がわかっていなかったし、婚約披露パーティーのこともあったでしょう? 落ち着いてから、報告したかった……」
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