第46話

「いいえ……貴臣には、心配をかけたくないの。たいしたことはないわ。このまま帰りましょう」

 手すりに掴まって立ち上がろうとすると、咲夜が肩を貸した。支えてもらえれば歩けそうだ。

 エレベーターへ向かうため、少しずつ歩を進めていたとき、音もなく薬師神が近づいてきた。振り向いた咲夜が声をかける前に、薬師神は自らの唇に人差し指を当てる。

「堂本さんは重傷ですので、黒川組は追い返しました。あなたがたに折り入ってお話しがあります。見張りの舎弟を呼んだらわたくしも帰りますから、先に屋敷に戻っていてください」

 小声で囁かれ、了承の頷きを返す。

 聡明な薬師神はすでに事の全容を掴んでいるのだと思わせた。


 堂本家に帰り着くと、すぐに主治医が呼ばれた。私の怪我は足首の捻挫で、全治一週間とのことだった。思ったより軽い怪我で済んだことに、ほっとする。

 それから、お腹に痛みが訪れないことに胸を撫で下ろした。赤ちゃんは無事なのだ。もし流産したらどうしようと恐れていたので、心からの安堵を零す。

 主屋のリビングにお茶を運んできた玲央は、咲夜から事の次第を聞いて眉を寄せた。

「あの女狐め、許せねえな。お嬢さんを階段から突き落とすなんて極刑だろ」

「玲央さん。お嬢さんの前ですから、口調に気をつけてくださいよ」

「余裕ぶってんじゃねえよ、咲夜。お嬢さんを守り切れなかったおまえが悪い」

「それについては大変申し訳ありませんでした。自分の責任です」

 玲央に叱られた咲夜はソファに座っている私の傍に跪き、頭を下げる。私は慌てて咲夜の代わりに弁明した。

「咲夜は私を助けてくれたわ。あなたがいなかったら、頭を打って大怪我していたかもしれないのよ」

「自分がお嬢さんを守るのは当然ですから。黒川真由華はお嬢さんを傷つけるつもりだと警戒していました。今日のことは組長に報告しましょう」

「でも……襲撃のこともあるわ。そちらのほうが重要よ。牧島がこの件にかかわっていると、真由華は漏らしていたわね。咲夜も聞いたでしょう?」

 咲夜が返事をする前に、怜悧な声が耳に届く。

「葵衣さんのおっしゃるとおりです。堂本さんへの報告は、こちらで状況を整えてからにいたしましょう」

 リビングの扉が開かれ、薬師神が姿を見せる。

 咲夜は膝立ちになり、薬師神に訴えた。

「若頭、大変です! お嬢さんが黒川真由華に階段から突き落とされて……」

 軽く手を上げて遮った薬師神は私の向かいのソファに腰を下ろすと、手にしていたジュラルミンケースをテーブルに乗せる。

「詳細はけっこうです。わたくしはこの目で事態を確認していました。それからこの地獄耳により、黒川組が漏らした情報もしっかりと捉えています」

 薬師神はすべてを把握していたのだ。その上で、私たちに相談があるのだろう。

 玲央は呆れたように肩を竦める。

「若頭は、お嬢さんが階段から落とされるのを黙って見ていたんですか? あなたらしいといえばそうなんですけど」

「咲夜が早足で階段下に回ったことは確認済みでしたからね。あなたがたには礼を言わなければなりません。今回の一件で、黒川組と牧島の謀略は確実なものになりましたから」

 目を瞬かせる私たちに、ジュラルミンケースを開いた薬師神は中から取りだしたレコーダーや複数の写真を見せた。私はその中の一枚を手にして眺める。

「これは……車に乗っているのは牧島ね。相手の男に何かを渡しているみたい」

「もしかしてヤクじゃないですか? 牧島がヤクをシノギにしてるってのは有名な話ですよ」

 写真を覗き込んだ玲央は眉をひそめた。

『ヤク』とは違法薬物のことで、『シノギ』は極道が稼ぐ手段を指している。西極真連合では違法薬物をシノギとして扱う行為は禁止しており、発覚したら破門なのだと舎弟たちが語っていた。

 はっとした咲夜は、顔を上げる。

「もしかして、ヤクのシノギには黒川組も噛んでいるということですか? だから今回の襲撃に牧島の名前が出てきたんですよね、若頭」

 薬師神は眼鏡の奥の双眸を煌めかせた。

「察しがよろしいですね。それでは、裏切り者を一網打尽にする絵を、我々で描いてみましょうか」

 頷いた私たちは、薬師神の話に耳を傾けた。

 

 ついに、婚約披露パーティーが開催される日が訪れた。

 貴臣は容態が回復して退院したという通達とともに、連合の重鎮や各組の幹部たちを多数招待している。

 先代の連合会長であった堂本権左衛門の孫である貴臣が、誰と結婚するのかは連合の将来を揺るがす一大事である。その相手が堅気の娘と知らされたら、幹部たちは肩の力を抜くことだろう。

 控え室で支度を整えていた私は、緊張に身を包みながらも、胸を躍らせていた。

 鏡に映るのは、可憐な桜吹雪が舞う白綸子の着物に、金彩の帯を締めた私の姿だ。貴臣が私にプレゼントしてくれた数々の着物はしばらくの間、クローゼットに収納されたままだったけれど、晴れの日に着用することを決めた。

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