第43話

「かまわない。間違えろ。俺は卓越した演奏を聴きたいわけじゃない。お嬢が俺のためだけに弾いてくれるピアノが聴きたいんだ」

 熱の籠もった双眸を向けてくる貴臣は、捕らえた私の指先をもどかしげにさする。

 彼がそう言ってくれるのならば、期待に応えたかった。

「そう……それじゃあ、少しだけ弾いてみようかしら」

「ぜひ頼む。俺はクラシックについてはまったくの素人だから、気負わなくていい」

 ピアノに導いてくれた貴臣は私が着席すると、背後にあるソファに腰を下ろした。

 どきどきと胸を弾ませつつ、鍵盤蓋を開ける。

 脳裏に楽譜を呼び起こして、白鍵盤に両手の指を置いた。

 メゾピアノから奏でられる『愛の夢』は、流れる水のような旋律を紡ぎだす。

 たとえ時が経っても、体に刻み込まれたものは消えない。鍵盤に触れるだけで、指先は軽やかに愛の調べを辿った。

 貴臣がひそめている呼気まで感じ取れるようで、ピアノの音色とともに身を浸す。

 室内に満ちる優しい音色が、心に深く染み込んでいった。

 やがて最後のアルペジオを奏で、そっと鍵盤から手を離す。

 ほう、とひとつ息をついて振り向くと、貴臣は聞き入るように目を閉じていた。

「……葵衣。話がある」

 そう呟いて目を開けた彼は、懐に手を差し入れながら立ち上がる。

 改まった貴臣の様子に、どきりと心臓が跳ねた。

「な……なにかしら」

 私のほうからも大切な話をしなくてはならないのだけれど。

 俯いていると、こちらに歩み寄ってきた貴臣は、椅子に座る私の前に片膝をついた。

「た……貴臣?」

 極道の組長という人の上に立つ身分であり、いつも威厳に満ちている彼が、まるで騎士のように私に傅くだなんて。

 驚いていると、懐から出した小箱が私の前に差し出される。

 小さな臙脂色のそれは、あるものを入れておく定番の箱だ。

 これまでの嫌な思い出がよみがえりそうになり、胸中が不穏にざわめく。

 けれど、貴臣の真摯な双眸にまっすぐに貫かれて、ふいに心は鎮まった。

「結婚しよう」

 深くて低い声音で告げられる。

 目を瞬かせた私は何度もその台詞を耳の奥で反芻した。

 その言葉をもらえるなんて、信じられなかった。だって私たちは、跡取りを残すためだけの、かりそめの関係だったはずで……

 小箱の蓋が開けられる。そこには大粒のダイヤモンドを冠した指輪が光り輝いていた。

「これ……もしかして、婚約指輪なの……?」

「そうだ。物はいらないという、おまえの思いは知っている。だが、この婚約指輪だけはどうしても受け取ってほしい」

 台座から指輪を外した貴臣は、ダイヤモンドのリングを私の左手の薬指にはめる。そうしてから、指輪の輝く私の手を、彼は両手で包み込んだ。

「俺の花嫁になる女は、おまえだけだ。ずっと俺の傍にいてくれ」

 彼の想いが、じんと胸の奥底まで浸透する。

 婚約破棄された私には、もう幸せなんて訪れないものだと諦めていた。極道の貴臣と結婚して組の姐御になるだなんて、想像もできなかった。

 だけど、私は貴臣と幸せになれる。彼は私との未来を望んでくれるのだ。

 思い描く幸福がすぐそこにあることを、貴臣はすべてを包み込むような優しさで教えてくれた。

 私の眦から感激の涙がひとしずく零れ落ちる。

「……私、貴臣のことが好き。あなたの、お嫁さんになりたい」

 正直な思いが唇から零れ落ちる。

 笑みを浮かべた貴臣は、私の体をきつく抱きしめた。

「俺もだ。好きだ。何も心配はいらない。俺を信じてついてきてくれ」

 彼の背に腕を回して、抱きしめ返す。

 好きと言えてよかった。貴臣にプロポーズしてもらえたことは、私の人生で最高の幸せだ。

 腕の力を緩めた貴臣は、愛しさを帯びた双眸で私を見つめる。

「婚約パーティーを開こう。俺の花嫁になるのは誰なのかを、広く知らせないとな。そうすれば、くだらない噂は消えるだろう」

「パーティーを開いてくれるの? 嬉しい……」

 許嫁がふたりいるという曖昧な状態に決着をつけてくれるのだ。貴臣の心遣いが嬉しかった。

 けれど婚約パーティーを開くということは、私が堂本組の姐御になると、組の内外に認知される。

 私に、姐御が務まるのかしら……

 貴臣のことは愛しているが、堅気の私が姐御になることをほかの組は認めるのだろうか。それに妊娠のこともあった。報告しなければと思うのに、様々なことが一度に決まったので、私の心は整理が追いつかない。

「さっそく、連合会長に知らせよう。ほかの組にも通達を出す。パーティーは広い会場を貸し切って盛大にやるぞ」

 嬉しそうな貴臣に不安を吐露して、水を差すようなことをしてはいけない。

 婚約パーティーのときまでには、堂本組の姐御としてやっていくという決意を固めよう。妊娠したことも、のちほどでよいだろう。話そうと思えば、いつでも打ち明けられるのだから――

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