第42話

 会話の内容は報告のとおりだ。だが襲撃の件については話が噛み合っておらず、要領を得ていない。金にかかわらない要求は流れたようだ。

 満足した俺はレコーダーを止めさせる。薬師神は感心して、柔和な表情を浮かべている幹部を見やった。

「よく録音できましたね。個室ですし、側近が見張っていたでしょう。怪しまれなかったのですか?」

「事前に仕込んでいましたので。密会中は、私はカウンターで飲んでいました。水ですが。料亭の女将とは懇意にしております」

 さすがは、俺が見込んだ男だ。報酬を約束して部下を下がらせる。

 さて、これをどう料理するか。牧島には、やつが破門される前に聞いておきたいことがある。なんとしても牧島の口から語らせないことには、俺の過去は終われない。


   ◆


 総合病院の玄関から出た私は複雑な思いを押し隠して、車寄せへ向かった。

 停車している車から降りた咲夜は後部座席のドアを開け、心配げな顔を向けてくる。

「お嬢さん、お加減はいかがですか」

「あ……本当に大丈夫なのよ。ただの心労みたい。安静にしていれば治るんですって」

 ほっとした笑みを浮かべる咲夜に、嘘をついたことへの後ろめたさが胸を衝く。

 体調不良と言って病院へ送ってきてもらったが、付き添いは断ったので、咲夜は私が内科へは向かわなかったことを知らない。

 産婦人科へ赴いた私は、医師から妊娠二か月の診断を下された。

 一向に月経がやってこないのでまさかとは思ったけれど、妊娠していたのだった。

 堂本家へ戻る道すがら、車窓から臨む景色をぼんやりと眺める。

「ねえ……咲夜が離れの係に復帰してから、一か月くらい経つわよね」

「そうですね。自分の謹慎の最終日に、黒川組のことがありましたね。玲央さんの頰の傷は、すっかり治りましたよ」

 クラブで元婚約者と再会したことや、もうひとりの許嫁が事務所にやってきたことなどが、遙か遠い昔のように感じる。あれから、ぴたりと騒動はなくなり、平穏な日々を送っていたから。

 妊娠週数は最後の月経の始まりを妊娠一日目として数えるという。振り返ってみると、妊娠したのはおそらくクラブから帰宅して、一晩中貴臣に抱かれたあのときだろうと思われる。

 私は偽の婚約者なのだろうかと悩んでいたときにはもう、孕んでいたのだ。

 赤ちゃんが宿ったことは、もちろん嬉しい。

 けれど契約としては、私が出産したら貴臣とは別れることになる。つまり、あと八か月後には赤ちゃんが産まれるので、そのとき私は貴臣の婚約者ではなくなるのだ。

 どうしよう……貴臣に、なんて言ったらいいのかしら……

 貴臣と、別れたくない。

 彼とずっと一緒にいたい。

 いずれ妊娠は報告しなければならないだろうけれど、それとともに彼への想いが溢れ出してしまいそうで怖くなる。

 思い悩んでいると、車は堂本家へ到着してしまった。

 すると咲夜が素早く運転席を降りて、玄関にいた人物に頭を下げる。

「ただいま戻りました、組長」

「……えっ⁉」

 その言葉に驚いて振り仰ぐと、玄関で待ち構えている貴臣が目に飛び込む。

 今の時間は会社に行っていると思ったのに。まさか、こっそり産婦人科を受診したことを知られてしまったのだろうか。

 緊張に身を強張らせていると、笑みを浮かべた貴臣は自らが開けたドアからてのひらを差し出した。

「待っていたぞ、葵衣。おまえにとびきりのプレゼントがある」

「え……また? 何もいらないと言ったじゃないの」

「そう言うな。これは、俺のためでもあるんだからな」

「まあ……どういうことかしら」

 貴臣のためになる、とびきりのプレゼントとは赤ちゃんでは……と思ったが、それは私から貴臣へ贈るべきものだ。

 けれど、どういったタイミングで打ち明ければよいのかわからず、ひとまず口を噤む。

 彼は私の手を取り、離れへと導いた。

 リビングの扉を開けると、眩い陽の光が射し込む。

 ややあって目が慣れたとき、そこに鎮座する漆黒のグランドピアノに息を呑んだ。

「どうして、ピアノが? 出かけるときはなかったのに」

 艶めくピアノは陽の光を撥ねさせている。ソファの隣のスペースがこれまで空いていたけれど、グランドピアノはまるでずっとそこにあったかのように泰然としていた。

 貴臣は握りしめた私の指先にくちづけを落とす。

「ピアノを弾くから爪を短く切っているんだろう? ぜひとも、おまえのピアノの音色を聴きたいと思ってな」

 それは赤ちゃんができたと思しき夜の、貴臣との会話だった。お守りを渡したときのことだ。そんな些細な話を覚えていてくれたなんて。

「だからピアノをプレゼントしてくれるの……? 私は人に聴かせられるほど上手なわけじゃないのよ。発表会では緊張して、音を間違えていたわ」

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