第40話

 嵐が過ぎ去ると、舎弟や若衆たちはそれぞれの持ち場へ戻る。

 重い溜息を吐いた私は、ようやく腰を上げた。

「玲央、戻りましょう。怪我の手当てをしないといけないわ」

「……では、お言葉に甘えます。お嬢さんも疲れたでしょう。温かいハーブティーを淹れますね」

 真由華という許嫁が現れて私が気疲れしたことを見透かされ、居たたまれない気持ちになる。

 貴臣は彼女に遠慮のない態度を取っていたけれど、あれは気の置けない仲ゆえだからなのかもしれない。組長の娘という立場であることからも、真由華は幼い頃から貴臣と知り合いなのに違いない。少なくとも、つい最近貴臣と知り合った私より、ずっとふたりの付き合いは長いはずだ。

 私……どうして貴臣と、もっと早く出会えなかったのかしら。

 ふと、そんな後悔を抱いてしまう。

 堂々と、私こそが本物の許嫁だと言えたらいいのに。

 その勇気がほしかった。強く言い返せなかった気弱な自分を、私は責めた。


   ◆


 再び会社に舞い戻った俺は、社長室の重厚な椅子に凭れた。しかも重い溜息を吐きながらだ。

 突然、真由華が堂本組の事務所を訪ねるという連絡を黒川組から受け取り、すぐさま駆けつけて正解だった。

 少しでも遅れていたら、流血沙汰になっていただろう。

 真由華は身勝手な女なので、自分の思いどおりにならないと激高して手がつけられなくなる。これまでも数々の揉め事を起こしては黒川組長が火消しに走っていた。居丈高に振る舞ってこそ極道の女だと勘違いをしているようで始末が悪い。

 葵衣を庇って矢面に立った玲央には感謝の念が絶えない。もし葵衣があの汚い爪で傷つけられていたら、黒川組長の指を落とすだけでは済まさなかった。

 ひとまずは事なきを得たが、黒川組のことはどうにかしなければならない。連合の末端である黒川組の組長が俺に追従するのはわかるものの、次期会長の椅子を狙うのならば、あえて堂本組に擦りよらなくともいいはずなのだ。

 もしかしたら、俺と結婚したいとわがままを言っている娘の願いを叶えてやろうという親心かもしれない。葵衣と暮らす前からだが、真由華と結婚する気はないと黒川組長には面と向かって伝えているというのに聞く耳を持たなかった。

 おそらく娘の結婚により、堂本組と次期連合会長の椅子のふたつを手中に収めようという魂胆なのだろう。

「まったく……わかっていないな。親なら娘を諫めるべきだろう」

 黒川組長の狸面を思い浮かべて呟いた独白を、冷徹な薬師神はしっかりと拾い上げる。

「堂本さん。ここだけの話ですが、真由華さんと結婚するんですよね?」

 どこをどのように切り取ればその結論に至るのか、理解に苦しむ。 

 きつく眉根を寄せた俺は、わざと不機嫌な声を出した。

「薬師神。おまえは耳の調子が悪いのか。そうでなければ、なぜそんな解釈になるのか聞いておこう」

 デスクの前に美しい姿勢で佇んだ薬師神は、くいと眼鏡のブリッジを指先で押し上げる。

「葵衣さんとは堂本組の跡取りを出産するまでの関係でありまして、それは彼女も承知しているはずです。堅気である葵衣さんが実家に戻ったあとは、真由華さんを堂本組の姐御として迎えれば、堂本さんは跡取りと黒川組を手中に収めることができ、損をしません。将来的には異母兄弟が跡目争いをするという可能性もありますが、まだ先のことなので、こちらの問題は置いてよろしいかと存じます」

 電卓で弾きだしたかのような薬師神の未来予想図には感嘆の息すら零れない。こいつは人間の感情というものを考慮に入れていないらしい。

「完璧な計画だな。まさに絵に描いた餅だ。素晴らしく美味そうだが、決して食べられない」

「ありがとうございます。計画を立てることは大切ですからね」

「おまえもわかっているんだろうが、言っておいてやる。俺は、葵衣と結婚する」

 明瞭な宣言に、薬師神は眉ひとつ動かさなかった。俺がそう言うことは想定済みだろう。

 だが、こいつは言いたいことは遠慮なく口にする。

「真由華さんは苛烈な女性ですが、堂本さんには従順なのではありませんか?」

「そういう評価の問題じゃない。あの女には虫酸が走る。俺が愛しているのは葵衣だけだ」

 葵衣に執着する理由は、『二十年会えなかった許嫁』への想いを募らせているということもある。 

 だが、それだけではない。彼女の清廉な優しさに惹かれているのだ。

 女ならほかの男に色目を使うものかと、銀山会の一件以来心配になっていたが、咲夜や玲央とは友人と変わらない付き合いをしている。それは彼らと接したときの空気でわかる。背信を疑ったことは俺の杞憂だった。

 しかし恋情がなくとも、葵衣が若衆たちに思いやりをもって接するほど、俺の嫉妬が燃え上がっているのを彼女は知らないだろう。

 無論、葵衣にはそのままでいてほしい。堂本組の者を大切に扱ってくれることは、俺の嫁に求める必須条件といえるのだから。

 そればかりか、彼女は俺の身を案じてくれた。外見でも財産でも身分でもなく、俺自身を葵衣は気にかけて心配しているのだ。

 胸ポケットの上から、もらったお守りにそっと触れる。まるで葵衣の想いが込められているような気がして、温かかった。

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