第39話
「や、やめて!」
前へ出ようとする私を、玲央は背中で押し留める。
真由華が刀身を引き抜こうとしたそのとき、背後から伸びた手が彼女の腕を鷲掴みした。
「事務所の前で何を騒いでいる。黒川組のカチコミか?」
低い声音はまるで冷水のごとく、場に染みる。
現れた貴臣は険しい双眸を向けていた。
はっとした真由華はすぐに短刀を懐に収める。怒りをすっかり消した彼女は、笑みを浮かべて貴臣に向き直った。
「貴臣さん、会いたかったわぁ。カチコミだなんてとんでもない。挨拶の声が、ちょっと大きくなってしもうただけやないの」
甘ったるい猫撫で声を出して、貴臣の腕にしなだれかかる。つい今まで激高していたとは思えないほどの変わり身だ。
冷めた眼差しの貴臣は、腕にしがみついた真由華を無遠慮に振り払った。
「挨拶が終わったなら、さっさと帰れ」
「あん、もう。貴臣さんはいつもそうなんやから。しょうがない人やねえ。うちを事務所に案内してくださる? 黒川組長からの言付けがあるから、まさか立ったままゆうわけにいかんやろ」
目を眇めた貴臣は、「入れ」と短く告げた。
それまで事態を見守っていた舎弟が素早く代紋の入った事務所のドアを開ける。貴臣の後ろにぴたりとつけた真由華がくぐると、そのあとに続いて入ろうとした薬師神が私たちを促した。
「葵衣さん、どうぞ。あなたにもかかわる話かと思いますので聞いてください。玲央も入りなさい」
「そう……。それなら、同席するわ」
黒川組から持ち込まれる話がどういったものなのか気になるので、私も事務所に入った。
奥へ向かった貴臣は、主が座るひとりがけのソファに腰を下ろす。
「座れ」
真由華へ向けて無感情に彼が指し示したのは、少し離れた位置にある斜め向かいのソファだった。そこからなら体を寄せることはできない。彼女は、いそいそと着物の袂を翻して着席する。
「お嬢さん、こちらへ」
小声で囁いた玲央は、奥のソファからは離れたところにある長椅子に私を導いた。奥の席は見えているが、双方の組の舎弟たちが見張りのように立っている後方に位置している。ここからなら会話には参加できないものの、話の内容は聞けるうえに、真由華に暴力を振るわれる心配もないだろう。
ふと見ると、玲央の頰は腫れていた。しかも裂傷がついて血が滲んでいる。真由華の爪が長いので、傷つけられてしまったのだ。
「玲央、ごめんなさい。私を庇ったせいで、顔に傷がついてしまったわ」
「俺は平気です。料理は顔でするものじゃありませんからね」
微笑を見せた玲央だが、端麗な顔についた傷が痛々しい。私の身代わりになったばかりにと思うと、胸に申し訳ない思いが広がった。
奥の席から貴臣の冷淡な声が聞こえたので、そちらに耳を傾ける。
「それで、黒川組長からの言付けとはなんだ?」
「貴臣さんもわかっとるでしょ。うちと貴臣さんの結納は、いつにするゆう話ですよ」
「何度も言わせるな。俺はおまえと結婚する気はない。それは黒川組長にも正式に話しているはずだ」
「またそんなこと言って。うちと結婚すれば、黒川組が全部手に入るんですよ? 西極真連合の会長も、いずれ貴臣さんが就くためには黒川組の後押しが必要やないの」
ふたりの結婚は、貴臣が連合の会長の座を得るために有利なのだ。
だが、真由華の説得を聞いた貴臣は不快げに眉根を寄せた。
「次期連合会長の座を狙っているのは、黒川組長だろう。連合から切り捨てられたくなければ俺に娘を押しつけるのはやめろと、帰って父親に伝えておけ」
話は終わりとばかりに貴臣は立ち上がる。
真由華は不満を露わにして、声を荒らげた。
「貴臣さんったら、なんでわかってくれへんの⁉ うちがプレゼントしたものも、全部返してきて。うちがどんなに傷ついたかわかっとる⁉」
通り過ぎようとした貴臣は、ふと真由華の手元に目を向けた。
そこには唇と同じ色に塗られた、真紅のネイルが輝いている。長い爪は凶器のようだ。
「おまえは、俺の婚約者を殴ろうとして堂本組の若衆を傷つけただろう。それについては何もなしか」
なぜそんなことを言われるのかわけがわからないといったふうに、真由華は目を瞬かせた。
けれどまっすぐに立ち上がった彼女は、極道の女らしい威勢を張る。
「貴臣さんの許嫁はうちです。偽物なんて認めへんからね!」
真由華は己の立場をはっきりと主張した。貴臣が訊ねたことには答えていないが、それだけ許嫁は自分であるという思いが強いのだろう。
そんな彼女から目を逸らした貴臣は、黒川組の舎弟に向けて顎をしゃくる。
「連れて帰れ。――行くぞ、薬師神」
「承知しました」
傍に控えていた薬師神をともない、貴臣は事務所を出ていく。真由華はわめきながらそのあとを追ったが、黒川組の舎弟に宥められて車へ乗り込んでいた。
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