第38話

 ややあって、テーブルに豪勢なブランチが並べられる。

 スモークサーモンとプロシュートのサラダに、数々の自家製パン。新鮮なフルーツの盛り合わせ。絞りたてのフレッシュなジュースや豆乳。メインはハムやチーズの入ったオムレツ、ホイップクリームを添えたパンケーキ。さらにモーニングリブステーキまで。

 咲夜の気合いに圧倒されたが、空腹だったため、それらの料理を美味しくいただいた。

 食後にカフェインレス豆乳珈琲を嗜んでいたとき、食器を片付けていた玲央に訊ねられる。

「お嬢さん、ベッドに戻りますか? だいぶ寝不足ですよね。寝るならすぐベッドメイキングしてきますけど」

 昨夜の長い情事を暗に指摘され、動揺した私は珈琲カップを揺らした。

 珍しく寝坊したためか、玲央にはすっかり悟られている。

「ね、寝ないわよ。もう着替えているもの。そうだわ、事務所に行こうかしら。玲央は明日から厨房に戻るわけだから名残惜しいでしょう。みんなに会っておいたほうがいいんじゃない?」

「そうですね。事務所の連中とは顔を合わせる機会が少ないので、挨拶しておきます」

 頰を引きつらせる私に反して、玲央はといえば平然としている。

 やっぱり、咲夜に離れを担当してもらったほうがいいかもしれないわ……

 豆乳珈琲を飲み干した私は微苦笑を浮かべた。


 玲央をともなって事務所への道のりを歩いていると、急スピードで門をくぐり抜けた黒塗りの高級車が目に留まった。

「どうしたのかしら?」

 堂本組で使用している車種とは異なるので、貴臣が帰ってきたわけでもなさそうだ。急ぎの用がある来客だろうか。

 昨夜の若頭会でのやり取りがよみがえり、不穏なものを感じ取った私は事務所へ走った。

 辿り着いたとき、車は事務所の正面に横付けされていた。

 ブラックスーツの見知らぬ組員が後部座席のドアを開ける。

 そこから降りてきたのは紅紫の着物を纏った、しかめつらの若い女性だった。髪を夜会巻きに高く結い上げ、真紅の口紅を塗っている。一見して堅気の人間ではないとわかった。

 じろりと私を横目で睨みつけた女性は、不機嫌そうな声を響かせる。

「なんや。堂本組の出迎えは、事務員の女かい。うちを誰やと思うとるんや」

 彼女の恰好や口調がひどく年嵩を思わせるが、年齢は私と同じくらいだろう。ほかの組の姐さんかもしれない。

 まるで喧嘩を売りに来たかのような気配を感じるので、私はできるだけ穏やかに話した。

「私は、堂本貴臣の婚約者の葵衣です。失礼ですけど、あなたはどちらさまでしょうか」

 息を呑んだ彼女は、私を頭から爪先まで不躾に眺め回した。

「こんな地味な女が、貴臣さんの許嫁やて⁉ うちの若頭が言うとったわ。クラブで偽の許嫁が、貴臣さんの隣に我が物顔で座っとったやてなぁ。本物の許嫁を差し置いて、泥棒猫がどんだけ図々しいことしとんねや」

「本物の許嫁……?」

 昨夜のクラブで話に出た、もうひとりの許嫁の存在を思い出す。それは黒川組の組長の娘だという。名前は確か……

「うちは黒川真由華や。父親は黒川組の組長やね。生粋の極道の女やから、うちこそが貴臣さんの花嫁に相応しいんよ」

 堂々と名乗った真由華は、真紅の唇に弧を描いた。

 彼女が、貴臣のもうひとりの許嫁――

 恐れていた輪郭が明瞭な形となって目の前に現れ、私は戦慄した。

 けれど、貴臣はあくまでも黒川組が勝手に主張していることだと私に説明してくれた。自分こそが本物の許嫁だと言う彼女とは、意見が食い違っている。

 自信に満ちあふれた真由華には後ろめたさなど微塵もなく、彼女の言い分が正しいのではと錯覚しそうになる。

 でも、私は貴臣の本当の婚約者でありたい。

 ほかの女性が貴臣と結婚するなんて、許容できなかった。

 勇気を奮い立たせた私は声を絞り出す。

「で、でも……私たちは子どものときから許嫁の約束を交わしていたので……」

「なにを言うとんねや! うちと貴臣さんが許嫁なんは、下っ端でもわかっとるわ。そんなことも知らんとは、なんて馬鹿な女なんや。呆れてまうわ」

 一方的にひどい言葉をまくし立てる真由華に眉をひそめる。

 こちらの言い分も聞いてほしいのに、彼女は威圧的に罵倒するばかりだ。

「さっさと出ていかんかい、この泥棒猫が!」

 真由華は勢いよく手を振り上げた。

 その瞬間、目の前に玲央が立ち塞がる。

 パン、と破裂音が辺りに鳴り響いた。

 私の代わりに頰を叩かれた玲央は顔色ひとつ変えず、真由華を見下ろしている。

「れ、玲央!」

「なんや、おまえ。退かんかい!」

 激高した真由華は目を吊り上げて威嚇した。対して玲央は冷静に述べる。

「退きません。お嬢さんを叩きたいなら、俺を殺して退かしてください」

「なんやとぉ……」

 まるで挑発するような玲央の台詞に、私は息を呑む。

 ぎりっと歯噛みした真由華は、懐から細長い桐の棒を取り出した。

 短刀だ。ためらいもなく私を叩こうとした真由華なら、本当に玲央を刺してしまいかねない。

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