第37話

 交換だけれど、私からほしいものはなかった。あえて言うなら、貴臣が抗争に巻き込まれて命を落とすことがないように、という彼の身の安全だろうか。そのためのお守りだった。

 私はゆるりと首を横に振る。

「何もいらないわ。もらったら……寂しくなるから」

 いずれ出産を果たしたら、私は貴臣のもとを去らなければならない。そのときに贈り物が手元にあると、彼を思い出して寂しさを募らせてしまうだろう。

 だから、物はいらない。写真も、小物すらも。

 私が呟いた台詞には哀愁が滲んでいたのかもしれない。ふと眉をひそめた貴臣だが、すぐに「そうか」と言って気を取り直していた。

「物じゃなくてもいいだろう。俺にしてほしいことはないか?」

「してほしいこと……」

 笑ってほしい――と言いかけたけれど、貴臣はすでに笑みを浮かべて私の言葉を待ち受けている。肩から二の腕に彫られた極悪な刺青と、眩しい笑顔のギャップに胸がときめいた。

 そのとき、貴臣の背中を見たいという願望が脳裏をよぎる。

 決して見せてもらえない極道の証。

 でも今なら、お願いできるだろうか。

「あ……あるわ。貴臣に、してほしいこと」

「なんだ?」

 無邪気な笑みを浮かべる貴臣は、私の願いをまったく予想していないと思われる。

 背中を向けるという、それはごく簡単なことだ。

 けれど見てしまったら、最後の箍が外れてしまいそうな気がする。堅気の人間が、極道の彫り物を見たいだなんて、いけないことではないだろうか。かりそめの夫婦という私たちの覚束ない関係が、壊れてしまうのではないか。

 そう恐れた私は、やはりためらった。

「今は……やめておくわ。いつか機会があったら、お願いするわね」

 驚いた顔をした貴臣は目を瞬かせる。

 してほしいことがあると言いながら保留にしたので、不思議に思うのは無理もないだろう。

「お嬢は俺を焦らす天才だな。今はその機会じゃないということなのか?」

「そ、そうね。とても簡単なことなのだけれど、今は、言えないわ」

 いっそう長い睫毛を瞬かせる貴臣は、私の体を抱き込むようにして褥に引き倒した。

「簡単なら、今すぐでいいだろう」

「今すぐできることだけれど、だめなの」

「それはいったい、なんだ? 史上最大の謎かけだ」

 どうにも気になってしまうらしいが、こうなるとあとには引けない。唇を引き結んだ私は首を横に振った。

 にやりと笑みを浮かべた貴臣は、まだ火照りを残した体を撫で下ろす。

「そうか。じゃあ、体に聞いてやる」

 こうしてまた濃密な交わりが始まる。

 散々愛撫されて啼かされ、夜が明けるまで揺さぶられても、私は口を割らなかった。


 すっかり陽が昇る頃、ようやく褥から起き上がる。

 貴臣はすでに隣にいない。

 寂しさが胸を衝き、寝乱れたシーツを握りしめる。

 そういえば夢うつつの中、額にキスされて仕事に行ってくると告げられたことを思い出した。私の願い事が何か、口を割らせようとした貴臣に一晩中抱かれたので、眠くて見送れなかったのだ。散々喘がされたけれど、背中を見せてほしいという願いは話していない。

「いつか……言えたらいいわ。そんな日は、来ないかもしれないけれど」

 そっと自らのお腹に手を当てる。ここに何度も子種を注がれた。

 もし妊娠したら、ふたりの関係は終わりが見えることになる。

 そう考えると、子どもができるのが怖かった。それとも妊娠して出産し、貴臣への恋心をすっぱり諦めたほうがよいのだろうか。

 もうひとりの許嫁については承諾していないと、はっきり言っていたけれど……

 抱かれているときは彼だけを見て、快楽を追っていられるのに、貴臣がいないときはあれこれと思い悩んでしまう。

 ふるりとかぶりを振った私は、皺の刻まれたシーツから抜け出す。

 シャワーを浴びてから着替えを済ませ、ダイニングへ赴く。テーブルには茶器の用意がしてあった。私が寝坊したので、朝ごはんは待ちぼうけの状態になっている。

 ベルを鳴らすと、すぐに玲央が階段を下りてきた。

「おはようございます、お嬢さん。ブランチでいいですか? けっこう品数が出そうなので、覚悟してくださいね」

「朝ごはんを逃したから、お料理が溜まったのかしら? 寝坊して、ごめんなさい」

「いえ、そういうわけじゃないです。今日で咲夜の調理担当が終わるので、あいつが気合いを入れて作りすぎなんですよね」

 言われてみると、貴臣が命じた咲夜の謹慎期間は今日で終わるのだった。慣れない厨房の担当になって、咲夜はよく頑張ってくれたと思う。

「咲夜の作ってくれるお料理も美味しかったわ。最後かと思うと寂しいわね」

「勘弁してくださいよ、お嬢さん。俺の料理番の立場がなくなるじゃないですか」

 肩を竦める玲央に笑みを向ける。

 貴臣がふたりの能力を見極めるための謹慎だったようだけれど、玲央と咲夜が忠実で仕事のできる部下だということをわかってくれたのではないだろうか。

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