第35話

 まるで、俺に任せろという合図のように。

「なるほど。おまえが婚約破棄して、葵衣に式場諸々のキャンセル料を払わせたクズ男か」

「なっ……なんであんたがそんなこと知って……そうか、葵衣が喋ったんだな。キャンセル料は葵衣が払って当然なんだ。俺は結婚するなんて言ってないんだからな!」

「おまえは、葵衣とは結婚したくないが、金は払ってほしいから婚約者だと主張するのか?」

 己の矛盾を指摘された亮は、何を言われたのかわからないというように目を瞬かせた。

 自らの保身しか考えないので、主張が一貫していないことに彼自身が気づかないのだろう。

 貴臣の発言は的を射ていた。亮は私と結婚する気はないけれど、尻ぬぐいはしてほしいということなのだ。あまりにも身勝手すぎる。

 そのとき、黒服のマネージャーが音もなく螺旋階段を上ってきた。路傍の石であるかのように亮の脇を通り過ぎた彼は、慇懃な仕草で臙脂色のケースを貴臣に差し出す。

「こちらのお客様の会計伝票でございます。会計を済まさずに帰ろうとしたのでボーイが引き止めました。電話をかけたいとおっしゃったあと、姿が見えなくなり、探しましたらこちらに。オーナー、いかがいたしましょうか」

 貴臣は会計伝票が挟まれているケースを開き、一目だけ金額を確認する。

 この店のオーナーが貴臣だと知った亮は、あんぐりと口を開けていた。

「あ、あんたがオーナーだったのか? ちょっと待ってくれ。今は持ち合わせがないだけなんだ。そうだ、金は葵衣が立て替えてくれる。そうだろ、葵衣?」

 先ほどまでの居丈高な態度を途端に翻した亮は、うろたえだす。それでも私に金を払わせて逃れようという姿勢は崩さないのが、怒りを通り越して哀れに思えた。

 臙脂色のケースをマネージャーに返した貴臣は、私の肩を抱いたまま亮を睨みつける。

「金は払わなくてもいいが、店は出禁だ。葵衣にも今後一切、近づくな。彼女は俺の婚約者であり、俺と結婚する」

 力強く告げられたその宣言に、私は目を見開く。

 貴臣は、私と結婚するつもりなの……?

 けれどすぐに、この場を収めるために強調したのだと気づいた。

 先ほど私がボーイに向けて、『堂本組の姐御』だと名乗ったように、誇張しているだけなのだ。

 会計を支払わなくてもよいと言われた亮は挙動不審に辺りをうかがい、やがて転げるように螺旋階段を下りていった。いつも逃げてばかりいる彼の背を哀しい目で見ていると、くいと頤を掬い上げられる。

 目を合わせられた貴臣の双眸に不満が籠もっているのを見て取り、私は釈明した。

「あの人とは、ここで偶然再会しただけなの。私の元婚約者のせいで、また貴臣にお金を負担させることになってしまって申し訳ないわ」

「それはいい。逃げる癖がついているやつは、最後は掃きだめしか居場所がない。二度とあいつにかかわるな。おまえは、俺だけの女だ。それを忘れるなよ」

 強い双眸に射貫かれ、こくりと頷く。

 もう過去のことは忘れようと、彼の瞳に誓った。

 そのあと帰宅するまで、貴臣は私の肩をずっと離さなかった。


 クラブから帰ると、貴臣は私を抱きかかえて車から降ろし、そのまま有無を言わさず離れの寝室へ連れ込んだ。

 いろいろと話したいことがあったのに、強引に服をむしり取られて濃密に愛撫され、嬌声しか口にさせてもらえない。

 そんな貴臣に反発したい気持ちもあるけれど、淫らな体はぐずぐずに蕩ける。

 ぎゅっと、貴臣の肩を掴んで爪を立てる。

 純白の恍惚に呑み込まれながら、腰をがくがくと震わせた。

 ふたりの荒い呼気が混じり合う。貴臣は呼吸が整わないうちに、私の唇を求めた。

「ん……」

 キスをして、ねっとりと互いの舌を絡ませる。

 すべてを満たされた心地になり、陶然とする。

 けれどこのまま流されると、また貴臣は腰を蠢かせるので終わりがなくなる。私はあえて舌を突き出し、口腔から彼の舌を追い出した。

「どうした。休憩か?」

 間近から見つめてくる貴臣の相貌には滴る汗の粒が輝き、色濃い情欲が宿っている。

 私は爪を立てていた彼の肩を撫でるようにてのひらを這わせた。

 極道の証である刺青をさわっても、爪で傷つけても、貴臣は何も言わない。それどころか、私は彼の背中を見たことがないので、全体がどういった絵柄の彫り物なのかすら知らなかった。見せてほしいと頼んだことはないけれど。

 もう何度も肌を合わせているのに、貴臣のもっとも大切なところには触れられない気がして、胸が切なくなる。

「……貴臣は、私が爪を立てても気にしないのね。刺青が傷ついてもいいの?」

 私が堅気の人間で、かりそめの花嫁だから、どうでもいいのだろうか。

 だから、もうひとりの許嫁のことも話してくれないのかと思うと哀しくなる。

 貴臣は枕を掴んでいたほうの私の手を掬い上げると、指先にくちづけた。

「お嬢の爪は伸びていないだろう。だから俺を傷つけられないぞ。こんなに切って深爪しないのかと心配になるくらいだ」

「ピアノを習っていたときの癖で、ぎりぎりまで切ってしまうのよ」

「ほう……ピアノが弾けるのか。さすがは社長令嬢だな」

「誰でも習えば、それなりに弾けるものよ。爪が伸びていなくても、掴まれたら痛いのじゃなくて?」

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