第34話

 彼との顛末を思うと、とても再会を喜べない。名前で呼ぶ気にすらなれなかった。

 上司との付き合いでクラブにいたのかもしれないが、それにしては以前との変わりように驚いた。

 くたびれたスーツに曲がったネクタイ、顎には無精髭が生えていた。上司の令嬢と結婚するのだと言っていたのだから、出世したはずなのに、まともに会社勤めしているのかと訝るほどである。

「質問に質問で返すなよ。そういうところが葵衣の悪いところだろ」

 居丈高に注意しながら階段を駆け上がってきた亮は私と距離を詰めてきたので、一歩引く。

 婚約を破棄したときはホテルのラウンジから逃げ去ったのに、今度は詰め寄ってくるなんて妙だ。

「そうかしら。あなたがもっとも気になる点は、婚約破棄したときのキャンセル料を支払ったかどうかじゃないの? ひとまず支払いはすべて済ませてあるから、あなたからお金をいただくことはないわ」

「そんなことはどうでもいいんだけどさ……ちょっと、金貸してくれないか? とりあえずこの店の支払いだけでいい」

「……なんですって?」

 亮は私の話など聞いていないようで、ひどく焦りを見せた。

 どうでもいいと片付けられたのにも腹が立つが、この店の支払いに困っているとはどういった状況なのか。商社勤めである亮の給料ならば、払えない金額ではないと思う。

「あなたは上司の令嬢と結婚したのよね? そのために私と婚約破棄したのに、クラブの料金を私に借りようだなんて恥ずかしくないの?」

 私たちはもはや他人である。それを望んだのは亮なのに、捨てた相手から金の世話になろうとはあまりにも図々しい。

 亮は気まずげに視線をさまよわせたが、必死に弁明してきた。

「そういうことじゃないんだよ。上司の令嬢とは結婚してないし、出世もなくなったんだ。それどころか俺は会社をクビになったんだぞ!」

「どういうことなの?」

「だからさ、誤解なんだよ。俺がほかの女に浮気しただとか因縁つけられて、破談にされたんだ。その責任を取ってもらうだとかで、会社を辞めさせられたんだよ。あのまま結婚できていれば俺は役員だったのに……はめられたんだ。藤宮製紙は持ち直してるし、こんなことなら葵衣と別れるんじゃなかったよ」

 呆れて溜息すら出なかった。

 察するところ、亮はほかの女性に手を出したことが発覚して見切りをつけられたようだ。彼は私とお茶をしているときでも、周囲の女性を眺める癖があった。今ならわかるが、あれはほかの女性を物色していたということなのだろう。浮気性が災いして失職したのは気の毒だが、保身だらけの言い分にはとても同情できない。

 亮は自己の利益のために、その都度有益な女性と結婚しようとしている。ところが結婚が決まりそうになると、別の女性に走ることを繰り返している。自信がないゆえなのか、それとも生来の浮気性なのかもしれないが、こんな男と本気で結婚しようとしていたなんて、私はなんて愚かだったのだろう。

 顔を背ける私に、亮は勢い込んで食い下がってきた。

「葵衣、俺とやり直そう! とりあえず、飲み代を払ってくれよな。ここにいるってことは面接だろ? オーナーに話を通しておいてくれよ」

「……お会計についてはオーナーに話しておくわ。だけど、私はあなたとやり直す気はありません。すでに別の人と婚約しているから、お断りするわね」

 きっぱりと復縁を否定する。

 亮が金のために私を利用しようという姿勢なのは明らかであり、そんな彼に対する愛情は微塵もなかった。

 それに、私には貴臣がいる。

 正式な婚約者かといえば微妙な位置ではあるけれど、貴臣は私の心のすべてを占めていた。

 彼がいないと寂しいのも、ほかの女性と一緒にいることを嫉妬するのも、貴臣への恋情ゆえなのだ。

 この想いが揺るぎないものであると自信を持って言えるから、ほかの誰にもなびくことはない。

 ところが亮は驚愕の表情を見せて、私に掴みかかってくる。

「なんだって⁉ もうほかの男がいるのかよ! そんなふしだらな女だったのか!」

 自分を棚上げして怒り出した亮は、私のコートの襟を引きちぎらんばかりに掴み上げた。

「きゃ……!」

 たたらを踏みそうになったそのとき、不躾な手がバシリと叩き落とされる。

 驚いた一瞬ののち、私の体は強靱な腕の中に抱き込まれていた。

「俺の女にさわるな」

 威嚇する猛獣のような低音を響かせて、突然現れた貴臣は守るように私を抱える。

 あまりにも遅いので様子を見に来てくれたのだ。

 貴臣の威圧に驚いた亮は身を引いていた。

 けれどすぐに虚勢を張った彼は私を指差す。

「な、なんだあんたは⁉ 俺はこいつの婚約者だぞ! 外野は引っ込んでろ」

 当然ながら亮は、貴臣がこの店のオーナーだとは知らないようだ。支払いに困っているのなら、彼に懇願するべきなのに。

「違うわ。もう婚約者では……」

 亮の勝手な言葉を否定しようとしたとき、貴臣が抱いている私の肩をそっと指先で叩く。

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