第33話

「ふん。帰ったらさっそく真由華お嬢様に報告か? あんたは密告で成り上がった若頭だからな」

「その台詞は牧島さんにお返しします」

「なんだとぉ?」

 立ち上がった牧島を、すかさず薬師神が肩を押さえて制止する。場に緊張が走ったが、貴臣の一喝が不穏な空気を薙いだ。

「うろたえるな! 酒の席で小競り合いするのはチンピラだけだ。おまえら若頭だろうが」

 しん、と静寂が満ちる。誰かのグラスから氷が崩れる音が、カランと響いた。

 牧島は渋々といった体で腰を下ろす。それを見た幹部たちは一様に、ふうと息を継いだ。

 どこかの組の幹部が「さすが、堂本組の組長さんは威厳がある」などと貴臣をもてはやす声が遠くに聞こえる。私の耳奥では警鐘のような耳鳴りが響いていた。

 黒川組の、真由華お嬢様――

 その名前は記憶の中からいとも容易く引き出された。

 事務所に届いた貴臣宛の、大量のプレゼント。あれらの送り主の名が、『黒川真由華』だった。

 咲夜は単なる知り合いと説明していたけれど、まさか、許嫁だったなんて。

 今すぐに貴臣を問い詰めたい気持ちを、ぐっとこらえる。私の肩が震えるのをどう取ったのか、貴臣は柔らかな笑みを向けてきた。

「驚いたか? 挨拶代わりみたいなものだから気にするな。今日は月恒例の若頭会でな。連合の若頭や若頭補佐を呼んで、こうして酒を振る舞ってねぎらうのさ」

 私が説明してほしいのは怒鳴ったことについてや、会合の詳細ではない。

 彼の表情には、許嫁がふたりいることへの罪悪感など微塵も見られない。各組の幹部が顔を揃えている手前、この場で私に説明できないのもわかるが、それにしてもまったく気にしていないようなそぶりなのは腹が立った。

「葵衣も飲め。シャンパンを開けるか。最高級のものを持ってこさせよう」

「けっこうよ。少し気分が悪いから、お手洗いへ行ってくるわ」

 貴臣が許嫁の件を誤魔化そうとしているような気がする。胸が痞えてきたので、彼の手を振りほどいて席を立った。

 すかさず玲央が腰を浮かせたので、彼に命じる。

「ついてこなくていいわ」

 玲央は貴臣をうかがいつつ、ゆっくり丸椅子に腰を落ち着ける。憮然とした貴臣は頷いていた。

 VIPルームを出た私は、廊下の端にあるお手洗いへ向かう。

 広い鏡台の前には誰もいなかった。鏡の中の陰鬱な自分の顔を見て、溜息が零れる。

 どうしてこんなにも心が揺さぶられるのだろう。

 私は跡取りを産むためのかりそめの花嫁なのだから、正式な婚約者とはいえないかもしれない。貴臣との関係もいずれは解消することになる。彼が婚約者をもうひとり確保しているからといって、文句を言える立場ではないのだ。

 けれど、ほかにも許嫁がいるのなら、私にひとことくらい言っておいてほしかった。彼が何も告げなかったのは、私が子を産むためだけの道具という位置づけだからなのかと考えると、哀しみが込み上げてくる。

 瞼の奥から熱い涙が滲み、頰を伝い落ちた。

「もしかしたら、なにもかも、その人と結婚するためなのかしら……」

 私と妊活して跡取りを産ませ、婚約破棄したそのあとに、黒川組の許嫁と正式に結婚する。そうすれば、貴臣は多くのものを手に入れられる。まずは跡取りと、生まれたときから極道の世界を知る花嫁、そして黒川組も手中にできるのかもしれない。母親はいなくてもかまわないといった環境で育ってきた貴臣だから、堂本組の後継者は正妻の子に限らずいくらでも必要とするのだろう。

 あの豪奢な離れも、たくさんの着物をプレゼントしてくれたのもすべて、黒川組の許嫁のためだった。

 私……どうして、愛されてるかもなんて、思えたのかしら……

 貴臣だけは信じたいのに。私の想いとは裏腹に、厳しい現実が突きつけられていく。

 肩を震わせ、零れる涙をひたすら拭った。

 けれど、いつまでもこうしてはいられない。先に帰るにしても、貴臣にひとこと断り、玲央をともなわなければならないだろう。

 ハンカチで目元を拭った私は深呼吸を繰り返した。

 連合の幹部たちが揃っている席で、貴臣の隣に座る私が取り乱してはいけない。そんなことになれば彼の権威にかかわってしまう。とにかく店を出るまでは気丈に振る舞おうと心がける。

 悠々とした足取りでお手洗いを出る。そのとき、螺旋階段を上ってくる人影が目にとまった。

 その男は背を丸め、おどおどと後ろを気にしている。かなり不審な様子だ。乱れてはいるがサラリーマンらしきスーツ姿なので、一階のお客さんだろうか。

 見覚えがある顔だと思い、足を止める。

 するとその男は私に気づき、「あっ」と驚きの声を上げた。

「葵衣じゃないか! こんなところで何やってるんだ⁉」

 声でわかったが、彼は私の元婚約者だった小溝亮だ。

 しばらく会っていないためか、それとも貴臣の印象が私の中で濃厚なためか、すぐにそうとはわからなかった。

 咎めるような口調で言った亮は言葉とは裏腹に、なぜか足取り軽く階段を上ってくる。まるで縋る藁を見つけたかのように。

「あなたこそ、どうしてここにいるの?」

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