第19話

「ご存じだと思いますけど、咲夜は家庭環境が劣悪だったから愛情を知らないんですよね。それなのに育ちのいいお嬢さんから親切にされたら、好きになっても全然おかしくないですよ。今まで周りにいなかったタイプだから惹かれるというのは、よくあることですから」

 まさに己を言い当てられたような気がして、重い溜息を吐く。

 だがすべては仮定の話なので、咲夜を問い質す気は毛頭ない。

 だめ押しのごとく、薬師神は愚問を重ねた。

「あなた自身は? 葵衣さんに惹かれますか?」

「それって、寝たい女かって意味ですよね?」

「そういう意味で、わたくしは質問しています」

 無機質に美しい玲央の表情は動かない。

 彼は驚くべき返答をした。

「そりゃ寝たいですけど、組長に殺されるのはわかってますからね。だからイエスかノーで答えられません」

 俺と薬師神は無言になった。堂々と俺たちの前で発言するのは剛胆なのか阿呆なのか。

 こいつがトラブルメーカーなのが、わかった気がする。

 呆れた溜息を吐いた薬師神は玲央に退出を促す。彼はお茶の用意が必要かうかがってきたので、断っておいた。

 書類をまとめた薬師神は、頭痛がするようにこめかみを押さえた。

「最近の若い者は何を考えているのか理解できませんね」

「その台詞が出るってことは、おっさんだぞ」

「わたくしは堂本さんと同い年です。咲夜は尋問しますか? また頭痛を覚える答えが出るのではないかと思われますが」

「必要ない。憶測で配置替えしていたら組員たちの不信を招く。ひとまず、若い者を信じて任せておけ」

「承知しました」

 薬師神は慇懃に頭を下げた。

『若い者』という台詞が出るのはオヤジだという切り返しを期待していたのだが、この冷徹な男は素早く席を立つと、出社を促した。


   ◆

 

 堂本家を訪れてから半月ほど経ったある日――

 応接室の受話器を手にした私は、久しぶりに聞く母の声に安堵が滲むのを感じていた。

「そうなの。私が住む屋敷がもう建てられていたのよ。とてもよくしてもらっているわ。貴臣さんは優しいし……あ、でも本当に結婚するかは先の話で、もしかしたら戻るかもしれないから」

 契約としては、跡取りを産めば血判状の約束を果たしたことになり、婚約は解消される。

 だから貴臣と同居生活を送るのは、妊娠して出産するまでだ。

 けれど心配させないため、母に詳しいことは話さず、元気に暮らしているという近況のみを伝えた。

 実家へ電話することを薬師神から促されたので電話をかけたのだけれど、母の声を聞くことができてよかった。

 その会話の中で、私宛に届いた請求書を薬師神が受け取り、すべて支払ってくれたという旨を知らされる。さらに藤宮製紙への融資も、貴臣の会社が申し出てくれたらしい。

 貴臣は私に何も言ってくれないので、お金のことはまったく知らなかった。

 通話を終えて受話器を置いた私は、呆然として呟く。

「どうしよう……こんなにお金を出してもらうわけにはいかないわ」

 傍に控えていた咲夜が、私の呟きを拾い上げた。

 普段は彼が隣にいることはないけれど、主屋で電話をかけるため、付き添いを申し出られたのだ。

「かまわないじゃないですか。お嬢さんはいずれ、堂本組の姐さんになるんですから」

 その言葉に、戸惑いを覚える。

 明確に話してはいないけれど、咲夜は大体の事情を察しているはずだ。

「私は貴臣さんと結婚しないわ。だから極道の姐さんにはならないわよ」

「……そうなんですか。自分は、姐さんになるのは葵衣さんしかいないと思いますけど……」

 捨て犬が縋るような目を向けられ、言葉に詰まる。

 貴臣のことは嫌いではない。むしろこの屋敷へ連れてこられてから毎晩抱かれているので、濃密な愛撫に蕩けてしまい、心まで絆されそうになる。

 けれど、極道の嫁にはなりたくない。

 貴臣も、跡取りをもらうだけでよいと初めに契約したのだから、私に嫁という立場までは求めていないのではないだろうか。

 血判状をもとにした契約を履行するだけの関係――ただ、それだけだ。

 そうわかっているはずなのに、心が軋むのはなぜだろう。

 目を伏せていると、応接室の扉が開いた。貴臣と薬師神が入室してきたので、素早く咲夜が私と距離を取り、頭を下げる。

 薬師神は鋭い眼差しを咲夜に向けた。

「咲夜。あなたは『葵衣さん』と、名前で呼んではいけません。いかなるときでも、『お嬢さん』とお呼びしなさい。それに組の将来は堂本さんが決めます。若衆が口を出さないように」

「はい。申し訳ありませんでした」

 薬師神は相当な地獄耳だ。謝罪を述べた咲夜は深く腰を折り、顔を上げない。極道のこういった厳格な縦社会も、苦手意識がよぎった。

 ふたりのやり取りを目にした貴臣は鷹揚な声を出す。

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