第17話

 そう思って彼女の身辺を調査させたところ、藤宮佐助はすでに亡くなっていること、そして葵衣には婚約者がいることを聞かされて衝撃を受ける。

 彼女には驚かされてばかりだ……

 過去を振り返った俺は、書斎のソファに腰を下ろした。祖父の代から使用している書斎は趣があり、書架に囲まれた室内は密談に向いている。

 音もなく向かいに座った薬師神は手にしたファイルから、複数の書類を取り出した。

「葵衣さんが破談になったことにより生じた負債ですが、すべて必要経費として支払っておきました。こちらが領収書になります」

「ご苦労だった」

 式場のホテルや不動産屋が発行した領収書を確認する。葵衣の代わりに請求書を処理しておけと、薬師神に指示していたものだ。

 ついと、薬師神は眼鏡のブリッジを押し上げた。切れ者のこの男がそういう仕草をすると、話が長いという合図である。

「念のため申し上げておきますと、婚約破棄された側は負担した金銭の返還請求ができます。調査によりますと、ホテルのラウンジにて元婚約者の小溝亮は『藤宮製紙の経営が危ういことを葵衣が隠していたので詐欺であり、費用をすべて負担すべき』という主張をしていますが、婚約解消が認められる正当な理由には該当しません。また、詐欺罪とは個人の財物を不法に侵害する行為を指しますので、単に騙されたというだけでは詐欺罪にあたりません。それよりも、小溝亮が別の女性と結婚するために葵衣さんと別れたいという理由がありましたので、葵衣さんはむしろ相手側に慰謝料を請求できます。いかがいたしましょうか」

「金のことはいい。こじつけて女に金を払わせようとする男なんぞクズだ。放っておけ」

「堂本さんがそれでよろしいのでしたら」

 葵衣は、くだらない男に引っかかった挙げ句に捨てられた。別の男と婚約している事実を知ったときには、どう別れさせようかと思案したものだが、男があっさりほかの女に乗り換えたので手を汚すまでもなかった。

 浮気性の男というのは、ほかの跨がる馬を常に探しているので落ち着きのないものである。おそらく小溝とかいう男はまた別の女を探すはめになるだろう。

 そんな男と結婚したところで葵衣が幸せになれるわけがない。

 諸々のキャンセル料を肩代わりしたところで、手切れ金と思えば、はした金だった。

「それから、藤宮製紙にはお言いつけどおり、十億円の融資を無担保にて手続きしておきました。葵衣さんのご両親へは血判状について説明済みですので、藤宮社長は大変恐縮しておりました。ただ、婚約者の家に同居するとはいえ、娘の声を聞かないうちは融資金を受け取れないとのことです」

「信用がないな。まるで人さらいだ」

「そのとおりでございましょう」

 さらりと同意する薬師神に皮肉な笑みを返す。

 金を出してやっているのに腹を探られるのは、極道の宿命といったところか。

 だが葵衣の両親がまともな考えだったことに安堵してもいた。自分にはもう親がいないので、親が生きているうちに和解しておくべきだと強く思う。

「実家に電話するよう、葵衣に言っておけ。咲夜をつけておけよ。家が恋しくなってそのまま帰られたら困るからな」

「そのことですが――堂本さんにご意見したいことがあります」

「なんだ。さっさと言え」

 また眼鏡のブリッジを押し上げた薬師神を、嘆息混じりに見返す。

「離れを若衆の咲夜に任せるのは、いかがなものかと存じます。彼は堂本組の構成員になって一年足らずと日が浅いですし、十九歳なので葵衣さんと年齢が近いです」

「それがどうした」

 咲夜を離れの世話役として指名したのは俺だが、それは大抜擢といえた。若衆はほとんどの者が事務所に詰めており、組長と直接話すことすら憚られる。それなのに特別な仕事を与えられ、組長の屋敷で身の回りの世話をするということは側近も同然で、将来の幹部候補である。

 堂本組の構成員は百名以上おり、新参者の咲夜の抜擢を不満に思う声が出ていることは承知している。

 薬師神は眉ひとつ動かさず、怜悧な眼差しで述べた。

「間違いがあったら困ります。咲夜は見た目が可愛らしく、女性が心を許しやすいと思われますが、中身は雄です。過去、何度も暴力事件を起こしています。もし彼が葵衣さんと肉体関係を持てば、堂本さんの面子は丸潰れになります。離れの仕事は、ベテランの舎弟頭に任せたほうがよろしいかと存じます」

 そういった意見を出されるのは想定済みだ。

 だが俺は、咲夜を高く評価していた。彼の忠義が厚いことは、目を見ればわかる。

 まっすぐで曇りのない眼差しは、性根がよい証拠である。性悪は横目を使うのが癖になっているので、人前であろうとも無意識に横目で相手の隙をうかがっているものだが、咲夜にはそういった仕草が微塵もない。つまり、俺を出し抜いてやろうとはまったく考えていない。

 人は己の心を目つきによって表している。

 父が亡くなり、祖父が病に倒れて堂本組が危機に瀕した際に、数々の汚い横目を見てきたから身に染みている。

「強面をつけたら、葵衣が萎縮するだろうが。あえて年齢が近い咲夜をつけたのは、葵衣が安心して過ごすためだ。万一のことを考えて、玲央もつけているから問題ない」

「わたくしとしては、玲央も問題を起こす元凶ではないかと考えています。なにしろ、あの顔立ちですからね。職場でセクハラされて逆に訴えられるくらいですから。また揉め事を起こしかねません」

 薬師神はまるでトラブルを心待ちにしているようである。

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