第16話


 薬師神に呼びつけられたため、俺は離れの廊下から主屋へ向かった。

 葵衣を残していくのは不服だが、彼女に聞かれたくない内容をこのあと薬師神と話すことになると予想できたので、咲夜と玲央に任せておく。

 案の定、主屋への扉の前で薬師神が待ち構えていた。俺の姿を見るなり、慇懃に頭を下げる。

「出迎えご苦労だな。書斎で待っていていいんだぞ」

「葵衣さんに引き止められてはかないませんので。堂本さんが離れに引きこもっておられましたから、仕事が溜まっています。ぜひ会社にお越しください」

 毒舌が混じるのは、この男の礼儀のようなものである。

 堂本組の若頭である薬師神は、会社の顧問弁護士を兼任している。長い付き合いだが、いつまで経っても極道に見えない弁護士先生だ。

 だが目利きに優れ、遠慮なく理屈を並べて看破する切れ者である。今も俺がすっかり葵衣に骨抜きにされたのを見越したらしい。

「書斎で報告を受けてからだ」

「承知しました」

 もし葵衣に縋りつかれたなら、抱き上げて寝室に逆戻りするところだが、残念ながら彼女は媚びるような女ではないと知った。

 そういうところも興味を引かれる。

 着物や宝石をいらないと言われたときは、かなりの衝撃を受けた。

 もしやそれ以上のものを贈れという意図かと勘繰ったが、どうやらそういう意味ではないようである。わけがわからない。そうすると車やマンションを贈っても無駄ということか。どうすればよいのか対処に困る。

 今まで俺の周りにいた女たちは媚びてばかりで、金品を要求してきた。

 葵衣はそれらの女たちとは明らかに異なっていた。

「写真でしか知らなかったからな……」

 ぽつりと呟き、薬師神が開けた扉から書斎へ入る。

 祖父の残した血判状と、その約束による許嫁が存在することは子どもの頃から知っていた。

『坊よ。おまえには許嫁がおる。藤宮の孫娘で、葵衣という名だ』

 西極真連合の会長として、誰もが恐れる極道の親分だった祖父は、俺にだけは目元を緩めて何度もそう話していた。そして見せてくれた写真には、二歳くらいの小さな女の子が写っていた。

 ――俺は、葵衣と結婚するんだ。

 尊敬する祖父の言うことを子ども心に刻んでいたが、やがてそれは成長するに従って、かすかな落胆に変わる。

 祖父は葵衣の写真や血判状を見せるものの、肝心の本人には会わせてくれようとしない。どうやら血判状を交わした相手である藤宮佐助がごねているのだと察した。藤宮佐助は堅気なので、孫娘を極道の嫁にやりたくないという考えがあるのかもしれなかった。

 だが、十億の金を用立ててもらい、血判状を交わしたのは事実である。

 数多の極道をひれ伏させる堂本権左衛門が、ひと声を発すれば、葵衣を連れてくるのはわけもないのだ。なぜ素人相手に手をこまねいているのか――と、俺の父親が怒鳴りつけたとき、祖父は烈火のごとく怒りを漲らせた。

『無理強いして嫁に逃げられたてめえは黙っていろ!』

 その叱咤に、父は悔しそうな顔をして押し黙った。

 俺は母親の顔を知らない。極道が嫌で逃げ出したのだとしか聞いていなかった。祖父の一喝から、父の女の扱いが下手だったことがうかがえた。

 若衆が面倒を見てくれるので、母親なぞいなくとも困っていない。祖父に頭が上がらない父が不憫に思えた。

 だが、ふたりが見せる焦燥を俺はすでに感じ取っていた。問題は、俺の代のそのあとなのだ。

 堂本組は世襲制なので、将来は俺が嫁をもらって跡取りを産ませなければならないという構図がすでに決まっている。もしそれが穏便にいかなかった場合、堂本組は瓦解する可能性がある。組長の交代で揉めた末に解散する組はいくらでもあった。ゆえに早期に基盤をしっかりとさせ、いざ組長を引き継ぐというときには盤石な状態にしておくことが肝要なのだ。

『いいか、坊。女ってのはな、引きずってくりゃいいもんじゃない。じっくりと囲い込むんだ。焦ることはねえ。この血判状がある限り、葵衣は坊の嫁なんだからな……』

 そう説いた祖父は俺の誇りだった。

 なんとしても葵衣を嫁にもらい、祖父の願いを叶えてやりたかった。

 だが抗争で父を亡くし、連合に裏切り者が出るようになると、西極真連合が揺らいだ。西極真連合は複数の組で構成されている一大組織である。にわかに盃を交わしたやつらには信用できない者も多かった。まだ若かった俺が組長を継ぐと決まったときには、外野が火の粉をかけてきたので追い払ったりもした。

 そうなると嫁どころではない。

 病気を患うようになった祖父が亡くなる前に、堂本組の権威を示しておく必要があった。

 やがて父を殺した輩を特定して粛清すると、その後の堂本組は浮き足立つことはなくなった。それを機に、長年の抗争に決着がつき、西極真連合の会長職は祖父が指名した組長が引き継ぐ形で丸く収まった。

 堂本組を継ぎ、無事に組長に就任した俺は祖父の死を看取った。

 そうしてようやく吹き返したように息をついたとき、俺は二十九歳になっていた。

 葵衣はどうしているだろうか。まだ一度も会っていない俺の許嫁は、すでに成人しているはずである。もう迎えに行ってもよいのではないか。

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