第10話
それなのにどうして胸が高鳴っていくのだろう。
私はもう彼と目を合わせることもできなくて、ただ曖昧に頷いた。
夕食は一階の和室に用意されていた京懐石をいただく。ライトアップされた庭園を愛でながら味わう食事は風雅なひとときだ。
まるで高級料亭のように煌びやかな数々の料理を目にし、くうとお腹が鳴ってしまった。
「まあ……美味しそう」
「たくさん食え。うちの料理番が腕によりをかけて、精のつくものをこしらえたからな」
箸を取り、まずはすっぽん仕立ての薫り高いお吸い物で、体の芯まで温まる。
真鯛のお頭がついたお造りは、輝くような鮪や甘海老、ぶりに真鯛と色とりどりで、まるで海の宝石箱のよう。それから、あわびの肝焼きに、ふぐの唐揚げ、蟹のあんかけなどの豪華な主菜が鉢物としていくつも並ぶ。
黒毛和牛のすき焼きは極上の舌触りで、とろりと口の中で蕩ける。
さらに、うなぎご飯に赤だしと香物が添えられている。
豪勢な懐石料理を堪能していた私は、ふと、うなぎやすっぽんといった食材が使用されている理由に気がついた。
いずれも高価な食材であるこれらには、精力を増進させる効果があるという。
途端にこれからの淫靡な行為を意識してしまい、顔を火照らせる。
切り子グラスに注がれた冷酒を嗜んでいた堂本さんは、薄い笑みを浮かべた。
「どうした。顔が赤いぞ」
「……べ、べつに。お料理が美味しくて感動したのよ」
あなたに抱かれることを想像して顔が赤くなりました、なんて言えるわけがない。
「それはよかった。デザートはシャインマスカットだ。俺の好物だから、よく産地から取り寄せている」
堂本さんがそう言うと、音もなく開かれた障子から、盆を手にした作務衣姿の男性が現れた。給仕をしてくれる若衆らしいけれど、その顔には帽子から垂れた薄布がかけられている。まるで舞台の黒子のようだ。
彼は無言でシャインマスカットがのせられた小皿を、堂本さんと私の傍にそれぞれ置いた。萌葱色をした大粒のぶどうは種がなく、皮ごと食べられる高級品だ。
どうして顔を隠すのかしら……
不思議に思い、首を傾げていると、私の疑問を察した堂本さんが説明する。
「こいつは、うちの若衆だ。この離れと、おまえの身の回りの世話を任せることになる。だが挨拶を受けるのは後日にしてくれ」
「どうしてなの?」
堂本さんはグラスを掲げる。切り子の冷徹な美しさが、彼の美貌を際立たせていた。
「初夜だからな。ほかの男の顔を見て、おまえの気を散らせないためさ。今夜は俺だけを見て、俺のことのみを考えろ」
雄の独占欲を発揮させた堂本さんは、グラスを傾ける。
お酒を飲んでいない私のほうが、くらりと酔ったような感覚に陥ってしまった。
また赤くなってしまった顔を見られたくなくて、俯いた私はぶどうの粒を口に含んだ。
夕食を終えたあとは、階下へ戻る。
豪華な料理をいただいて、お腹はいっぱいだ。堂本さんはすべてをぺろりと平らげ、さらに冷酒まで飲んでいたのに平然としている。
リビングを通り過ぎ、堂本さんは奥の部屋へ歩を進めた。
もしかして、寝室……?
どきどきしつつ私もついていくと、とある部屋の扉の前で、つと彼は振り向く。
「葵衣」
「な、なにかしら。堂本さん」
ただ呼ばれただけなのに、びくりと肩が跳ねてしまい、声が上擦る。
これからのことを過剰に意識しているようで、恥ずかしい。
そんな私の様子を堂本さんは面白がるように見下ろした。
「その『堂本さん』は、やめてくれないか。俺たちは夫婦だろう」
「仮の夫婦よね」
「そういうことだが、これから肌を合わせる相手に対しては、あまりにも他人行儀じゃないか。俺のことは『貴臣』と名前で呼んでくれ」
「わかったわ。……貴臣」
彼の名を口の中で転がすと、極上のぶどうのごとき甘味を覚えた。
艶めいた笑みを見せた貴臣は、体を傾けてきた。互いの距離がいっそう縮められる。
こくん、と息を呑み込んだ私はすっかり萎縮してしまい、俯きがちになる。
貴臣の長めの前髪がはらりと落ちかかるのが、間近に見えた。それほどにふたりの顔は近い。
「風呂に入るか。ふたりでな」
「え……?」
耳に囁かれた低い声音に、目を瞬かせる。
ふたりで入浴する……ということは、私の裸が完全に見られてしまう。これから子作りにともなう行為をするわけだけれど、その前に全裸を晒すだなんて、私の常識では考えられないことだった。
「そ、それは、ちょっと……今日は落ち着いて入りたいから」
断ったら、怒られるか、ふて腐れられる。そういう男の反応しか知らなかったので、できれば断りたくはなかったけれど、知り合ったばかりの貴臣の前で全裸になるのは抵抗があった。
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