第7話

 冷や汗を滲ませながら、達筆な文字の中に『十億円』という記載がないか探してしまう。もし今さら十億円を返済しろだなんて迫られても、返せるわけがない。

「これ……借金の借用書なの?」

 震える声でうかがうが、堂本さんはゆるく首を横に振った。それだけで緊張した糸がゆるみ、ほっと安堵の息をつく。

 堂本権左衛門は貸した金の返済を求めないということだから、やはり借金という形ではないのだ。

 けれど、次の堂本さんの言葉が私の背筋を凍らせる。

「血判状には、『金の代わりとして、藤宮佐助の孫娘を堂本家に嫁入りさせることを約束する』とある。つまり、葵衣が俺の嫁になるってことだ」

「……え」

 予想もしなかった内容に、目を瞬かせる。

 血判状を眺めると、確かに『孫娘』『嫁入り』などの単語があった。

 おじいちゃんの孫は、私ひとりしかいない。二十年前に取り交わされた約束ということは、当時の私は二歳である。つまり私の知らないところで、結婚相手がすでに決められていたということなのだ。

 そんなことは初耳なので驚きを隠せない。遺産というからには骨董品かと思ったのに、まさか極道への嫁入りだったとは、あまりにも困った遺産だ。

「そんなことを急に言われても……おじいちゃんは私に何も言っていなかったわ」

「察しがつく。血判状を交わしたあとの藤宮翁はこれまで、堂本家にひとこともなしだったからな。十億円で会社を持ち直すことができたのに、約束は反故にしようとは随分と図々しいじゃないか」

 ごくりと息を呑む。

 当時のおじいちゃんがどういう気持ちで血判状に拇印を押したのか、想像を巡らせる。十億円の代わりとはいえ、極道の堂本家に私を嫁入りさせることを、おじいちゃんはためらったのではないだろうか。だから私や家族に、血判状の存在を秘密にしていたのだ。

「……こう言っては不躾かもしれないけれど、おじいちゃんは堂本権左衛門さんに脅されて、仕方なく血判状にサインしたのではないかしら。だって、おじいちゃんは堂本さんの名前を口にしたこともないのよ」

「そうかもしれないな。堂本組は世襲で組長を継ぐ。俺もひとり息子で兄弟はいないんだ。うちのじいさんが堂本組の将来を考えて、嫁入りの話を藤宮翁に持ちかけたのだろう。じいさんは俺が子どもの頃から、『おまえの嫁は、藤宮の孫娘だ』と嬉しそうに語っていた。俺はいつ許嫁に会わせてもらえるのだろうと期待していたものさ」

 許嫁という言葉に唖然とする。

 私は亮と婚約するずっと前から、婚約者が存在していた。その相手がまさか極道だなんて。

 呆気にとられている私に堂本さんは、ぐさりと刃を突き立てるように言う。

「たとえ脅されたとしても、血判状に承諾したのは藤宮佐助の意志だ。己が死ねば無効になるだろうなんて考えは、甘いんじゃないか。なあ、葵衣。血判状の主役としては、祖父を不義理者にしたくはないよな」

 ぐっと胸が痞えた。

 堂本さんの言うとおりで、祖父の気持ちがどうあれ、傍から見れば不義理者に違いない。十億円を提供してもらっておいて、その代わりに孫娘を嫁にやるという約束は知らぬふりをしたまま亡くなったのだから。

「でも、堂本さんの気持ちはどうなの? 血判状の約束だけで結婚相手が決められてしまうなんて困るんじゃない? それに私たちは初対面で、お互いのことを好きでもないのよ」

 血判状が取り交わされたのは私たちが子どもの頃だったので、当人同士の意志はそこにはない。大人になればいろいろな人と出会い、自らの意志で交際して結婚相手を決める。祖父が勝手に決めた婚約者なんて、好きになれるかどうかもわからないのに、いくら約束だからといって無理に結婚する必要なんてないのではないか。

 ところが堂本さんは、高い足を組んで悠々とソファに凭れた。

 私を眺める双眸が猛禽類のごとく細められる。

「俺は、おまえがいい。これから俺のことを好きにさせてやるよ」

 どきん、と胸が弾む。

 思わずときめいてしまったけれど、すぐにかぶりを振った。

「だめよ……私、婚約破棄されたばかりで、その借金を抱えているの」

「そうらしいな。薬師神から報告を受けている」

「え……知ってたの⁉」

「葵衣の近辺は部下に調査させている。藤宮翁は決して俺を葵衣に会わせようとしなかったから、動向を探らせてもらった。無理強いするのもどうかと思ってこれまでは様子を見ていたが、藤宮翁の一周忌が済んだのを機に、血判状の存在を伝えさせてもらったわけだな。婚約者なんぞいても別れさせるつもりでいたが、男のほうから断ったようで都合がいい」

 堂本さんには婚約破棄されたことを知られていたのだ。

 もとは彼が正しい婚約者なのだから、約束を実行するために私の動向を注視するのは当然のことかもしれない。

 亮とはもう終わっているので、彼との結婚は諦めている。

 だからといって、堂本さんと結婚しようという気にはなれなかった。

 私が堂本さんと結婚すると、極道の姐さんという地位に収まることになる。堅気の人間ではなくなる。この世界で生きていこうだなんて、そんな覚悟は持てなかった。どうしても結婚は断りたい。

「私が子どもの頃から堂本さんの婚約者だったという事情はわかったけれど、だからといって結婚するのは困るわ……。あなたと結婚したら、私は堂本組の姐さんになるわけでしょう? 極道の嫁は、姐さんとして組を支えていかなくてはならないのよね?」

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