第6話

 いつの間にか咲夜さんが背後に控えていたので、素早く告げておいた。

 堂本さんが軽く頷いたので、咲夜さんはすっと身を引く。

 手を取られたまま導かれた応接室の豪華さに、また驚かされる。

 本革張りのソファセットに、大理石のローテーブル。精緻な模様の絨毯は、高名な産地の織物だ。いずれも高級品ばかりで、金額にしてみたら大変な高額だろう。

 平静を装いつつ、しっとりとした革のソファに腰を落ち着けた。

 向かいに腰を下ろした堂本さんは、どっしりと構えている。さすが屋敷の主人といった風格が醸し出されていた。

 そこへ、漆黒のスーツを纏った金髪の若い男性が、銀盆を携えて音もなく入室してきた。

 銀盆には紅茶の入ったティーカップが二客のせられている。

 くつろいだ様子の堂本さんが、提供される紅茶を眺めていた私に声をかけた。

「砂糖とミルクは、いるか?」

「……いいえ、いらないわ」

 婚約破棄されたとき、ちょうど紅茶に砂糖を入れている最中だった。縁起が悪い気がするので、これからはストレートで紅茶を飲もうと心に決める。

 そんな事情を知らない堂本さんは、金髪の男性に顎をしゃくる。

 テーブルに置こうとしていた砂糖壺とミルク入りのポットを銀盆にのせたまま、軽く一礼した男性は部屋を辞した。

「そう固くなるな。紅茶には媚薬も青酸カリも入ってないぞ」

「……堂本さんは冗談が下手なのね。まったく面白くないわ」

 冷めた目線を投げて、ソーサーごと紅茶のカップを手にする。ティーカップに描かれた繊細な模様が美しい。立ち上る芳しい香りは、上質な茶葉を思わせた。

 こくりと、ひとくち含む。温かい紅茶が強張っていた体をほぐしてくれるようだった。

「そのとおりだ。俺の冗談は面白くないと、よくうちのやつらに酷評される」

 朗らかに笑った堂本さんも紅茶を嗜む。

 ひと息ついて、私から本題を切り出した。

「それで、私の祖父が残してくれた遺産があるということだけれど、それは何かしら?」

 知らず、声が弾んだ。

 おじいちゃんが預けていた骨董品のひとつでもあるという話なら、今の私にとってはありがたい。お金に換えたら借金を返せるし、父の会社も助けられるかもしれないのだ。

 期待する私の心を諫めるかのように、堂本さんはゆったりと構えていた。

「まあ、そう結論を急がなくてもいいんじゃないか? ここは主屋なんだが、離れもあるんだ。贅を尽くした豪勢な造りでな、俺が建てた特別な屋敷さ。ぜひ見ていかないか」

「お宅見学は、けっこうよ。まずは遺産を見たいわ」

 お金持ちの骨董品や屋敷の自慢は長いものと相場が決まっているので遠慮したい。今すぐに遺産の正体を知りたかった。

「そうか。まあ、離れを見るのはあとからでもいいしな」

「ええ、そうね。機会があれば」

 社交辞令を述べておいたけれど、遺産さえ受け取ったら、極道の家に長居は無用である。

 意味ありげに口端を引き上げた堂本さんは、軽く手を挙げた。

 先ほど紅茶を提供してくれた金髪の男性が、今度は盆に紫色の布をのせてきた。

 絹と思しきそれはかなり大きく、賞状を包んで保管しておくようなものと推測される。

 大きな袱紗みたいね……もしかして土地の権利書かしら?

 跪いた男性は慇懃に、堂本さんへ盆を捧げた。布を外した堂本さんは取り出した書類を、大理石のテーブルに広げてみせる。私は身を乗り出して、その書類を見た。

 そこには筆で書かれた流麗な文字が躍っている。達筆すぎて、なんと書いてあるのか読めない。末尾の署名に、『藤宮佐助』と記されているのはわかった。祖父の筆跡だ。署名の下には真紅の拇印が押されている。その隣には、もうひとつの名前と拇印もあった。

「これ、おじいちゃんのサインだわ……。この拇印、もしかして血なの?」

 祖父が、よく筆と墨を用いて署名していたことを子ども心に覚えている。

 けれど拇印つきのものは初めて見た。

「血判状だから、そりゃ血だな。指を刃で切って判を押すんだよ。それだけ二十年前に交わされたこの誓いが強固だという表れだ」

 薄く笑んだ堂本さんは、さらりと言った。どうやらこれは土地の権利書などではなく、私的に交わされた血判状なるものらしい。

「血判状……? おじいちゃんは、堂本さんに何を誓ったというの?」

「藤宮佐助がこの血判状を取り交わした相手は、俺の祖父だ。ここに、堂本権左衛門の名前があるだろう」

 指を差されたところを見ると確かに、もうひとつの名は『堂本権左衛門』と記されている。その下には、祖父のものと同じように拇印が添えられていた。

 堂本さんは言葉を継いだ。

「俺たちの祖父は親友だった。うちのじいさんは顔が広かったからな。パーティーで藤宮翁と知り合ったんだろう。だがあるとき、藤宮製紙が営業不振に陥り、莫大な負債を抱えることになった。そのときに十億の金を貸したのが、堂本権左衛門だ」

「じゅ、十億円……⁉」

 とてつもない金額に目を瞠る。藤宮製紙は創業以来、幾度か訪れた危機を乗り越えてきたのだけれど、堂本さんの話は初耳だった。

「正確には、貸したのではなく、あげたんだ。堂本権左衛門は金の返済を求めなかった」

「えっ……十億円もの大金を? いくら堂本さんのおじいさんが気前がよいとしても、十億円を寄付のように差し上げるだなんて考えられないわ」

「そうだろう。だから、この血判状が交わされたんだ」

 私はテーブルに広げられた血判状に改めて目を落とした。

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