第3話

「ない……キャンセル料を払うお金がない……」

 段ボール箱に囲まれて、私は呆然と呟いた。

 すでに残高は底を尽きかけていたのだ。そのうち亮が返済してくれるのだから大丈夫だろうと考えていたので、まったくお金の心配をしていなかった。

 それなのにまさか、こんなことになるなんて。

 バッグからスマホを取り出し、見慣れた番号に電話をかける。

 亮に相談してみよう。先ほどは一方的に責められたので、承諾した形になってしまった気がするけれど、ふたりの結婚なのだから私だけが全額を負担するのはおかしいのではないだろうか。せめて彼にいくらか払ってもらいたい。

 もし、『さっきは悪かった。やっぱり結婚しよう』と言ってくれたら、借金も帳消しになるわけで。

 だが、儚い希望に縋る私を粉砕するメッセージが無機質に流れた。

『お客様がおかけになった番号は、おつなぎできません……お客様がおかけになった番号は……』

 ぽとり、と残高の乏しい預金通帳が私の手から滑り落ちる。

「え……着信拒否にされてる……?」

 信じられない。ついさっきまで私たちは婚約者で、もうすぐ結婚式を挙げる予定だったというのに、わずかな時間でその関係は脆くも崩れ去ってしまうなんて。

 それとも、私が鈍感なので、亮の変化に気づかなかっただけなのか。

 そのあと幾度も電話をかけ続けたけれど、同じメッセージが流れるだけだった。


 もう何度目だろう。重い溜息を吐くのがとまらない。

 あれから数日が経過したけれど、私は自室から一歩も出ていなかった。心配した母が食事をのせた盆を持っておそるおそる部屋に入ってきたので、『だめになったの……結婚……』と小さく呟くと、母は苦い顔をして俯いていた。私の態度から、何があったのか両親は大体察したようで、責められはしなかった。

 スマホには『結婚おめでとう!』というメッセージが、式に招待した友人たちから入ってくる。私はいちいちそれに対して『結婚式は中止になりました。ごめんなさい』と返信しなければならず、そのたびに深淵まで落ち込むのだった。

 亮からは当然というべきか、何も連絡はなく、私は無機質な拒絶のメッセージを聞くのも嫌になったので、彼と話し合うことを諦めた。

 泣きはらしたあとはもう、心が空洞になった。

 思い返してみると、私は幸せな結婚がしたいだけで、亮のことはさほど好きではなかったかもしれない。というより一方的に婚約破棄をされ、借金を背負わされたという事実により、心は離れていた。亮のほうもとうに私への気持ちはないのだろう。役員の令嬢と結婚するつもりなのだから、私とはなかったことにしたいのだ。連絡を取ることを拒否しているのが、それを証明していた。

 そうすると私に残されたのは傷ついた心と、借金のみ。

 寿退社しているので、現在の私は無職だ。両親に頼み込んで借金を肩代わりしてもらうわけにもいかない。父が融資を頼むために駆け回っているのを知っているからだ。

「これから、どうしよう……」

 肩を落としていると、来客を告げるチャイムが階下から鳴り響いた。

 だが母が応対する気配はない。買い物に行っているのだろうか。父は出社しているので、ほかには誰もいない。

 ピンポーン、ピンポーン……

 チャイムは幾度も鳴らされている。どうやら来客は、誰かが応対しないことには帰れない用件でもあるらしい。

 溜息を吐いた私は仕方なく腰を上げ、部屋を出た。

「はいはい。集金ですか?」

 階段を下りて玄関先に声をかける。

 すると、ガチャリと玄関扉が開かれた。

「よう。いたのか」

 深みのある重低音の声音が響き、私は目を瞬かせる。

 現れたのは、漆黒のロングコートに身を包んだ亜麻色の髪の男だった。

 男がサングラスを外すと、眦の切れ上がった鋭い双眸がこちらを見据える。鼻筋はすっと通り、唇は薄いのに綺麗に口角が上がる。猛々しさの中にも気品が滲む精悍な顔立ちだ。

 高身長で肩幅の広い強靱そうな体躯、そして彼から醸し出される威厳に圧倒された。

「あの……何か、ご用でしょうか?」

 眉をひそめた私は、おそるおそる問いかける。この人が集金のスタッフのわけがない。しかも彼は背後にふたりの男たちを従えていた。彼らはいずれも漆黒のスーツを着用している。まるで葬儀屋のようだけれど、そうではないとしたら、思い当たる職業はただひとつ。

 亜麻色の髪の男は口元に笑みを刷いて答えた。ただし彼の視線は獲物を見定めた猛禽類のように、私から外されない。

「俺の名は、堂本どうもと貴臣たかおみだ。西極真連合のひとつ、堂本組の組長だよ。じいさんの藤宮佐助から堂本組の名を聞いたことはないか、葵衣さん」

 嫌な予感が的中した私は青ざめる。

 彼らはヤクザだ。組の名称などは初耳だけれど、威圧の滲む雰囲気でそれとわかる。しかもどうしてヤクザに、おじいちゃんや私の名前まで知られているのだろう。

「し、知りません……! 祖父は一年前に亡くなりました。もしかして、あなたに借金をしていただとか、そういうことですか?」

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