第2話

 婚約破棄された私がまず初めにしたことは、打ち合わせをキャンセルするため、式場へ電話をかけることだった。

 その流れで、結婚式自体をキャンセルするかもしれないこと、それにまつわる費用はいかほどかを、おそるおそる担当者に訊ねる。耳にした金額は驚くほど高額だった。単に会場のキャンセル料だけではなく、発注済みの商品などの諸経費を含めると妥当な額だという。「招待客も多く、大きなお式ですからね……」と気の毒そうに担当者が述べるので、余計に居たたまれなくなる。

 はっとした私は次に、新居を契約していたマンションの管理会社へ電話する。もちろん、契約をキャンセルするためだ。さらに購入した家具を新居に運ぶはずだったので、それもキャンセルする旨を家具店に連絡する。それから独自に注文していたブーケのキャンセル、それから……

 これらの通話をほかの人に聞かれたくないので、私はカフェなどに入らず、路地の片隅でこそこそと電話していた。

 契約を結ぶときはスムーズなのだが、キャンセルするとなると猥雑で、かつ担当者によっては面倒そうに声を荒らげたりもした。電話越しなのだが、私は道端でぺこぺこと頭を下げて謝罪する。

 なんと惨めなのだろうと、涙が滲んでくる。

 社長令嬢として恵まれた生活を送り、一貫の女子校に通った私は、いつか恋人ができて幸せな結婚をしたいと夢見てきた。そうして出会った亮は、初めての恋人だった。

 交際しているときの亮とは楽しい時間を過ごせたので、『結婚したいわね』と言ったら、『いいんじゃない』と了承されて舞い上がった。

 きちんとしたプロポーズというわけではなかったけれど、こんなふうに穏やかに結婚が決まるものなのかもしれないと呑み込んだ。思えば、あのときからお互いの価値観に、わずかなずれが生じていたのかもしれない。

「なにが、『いいんじゃない』よ……」

 通話を終えた私はやるせない思いで呟く。

 振り返ってみると、彼の結婚したいという意志は曖昧だったのかもしれない。それなのに断るときは、きっぱり『結婚できない』と叫んだのだ。私と結婚するのは嫌だという明確な意志がそこにあり、叩きつけられたのだ。

 私はそんなに魅力のない女なのかと思うと、哀しくなる。

 ただ、彼の言い分に強く反論できない。

 父の会社は有名な大手製紙会社として名を馳せたのだが、昨今の業績は悪化を辿る一方で、株価は低迷している。倒産の噂があるのも事実だった。亮が私と結婚することで、泥船に乗せられるように思い、不安を募らせたのかもしれない。だからあっさり、役員の令嬢という大船に乗り換えたのだ。

「結婚って、こんなに簡単に壊れるものだったのね……」

 重い溜息を吐いた私は、とぼとぼと家路への道を行く。

 好きな人と幸せな結婚をする、という当たり前のはずの幸福がひどく遠い。

 私が悪いのだろうか……けれど、私と結婚することに迷いがあったのなら、安易に了承してほしくなかった。亮が自分の気持ちや立場をはっきりさせなかったから、こんな結果になったのではないか。彼の気持ちを汲まず、幸せな結婚ばかりを夢見ていた私がやはり悪いのか……

 堂々巡りで思い悩んでいると、ふと、左手の薬指にはめていたダイヤモンドの婚約指輪が目につき、乱暴に外す。

 この婚約指輪は私が代金を立て替えて購入したものだ。あとでまとめて返すというので、マンションの契約代金などもすべて私の貯蓄から支払っていた。それらの費用を私が負担することになったので、つまり私は空虚な未来にせっせと投資して、挙げ句すべてを失ったわけである。

 悪意を持った神様が、幸せになれないよう私の頭を押さえつけている。そうとしか思えなかった。 

 涙が零れてしまった私は、嗚咽を必死にこらえた。


 高級住宅地に構えた邸宅の外装は剥げていた。こんなところも、おちぶれていると亮に見られていたのだろうかと思うと、居たたまれなくなる。

「ただいま……」

 自宅に戻った私は、引っ越し用の段ボール箱が玄関先に積み重ねられているのを目にして唇を噛みしめる。新居のマンションへ運ぶために、二階の自室からここへ移動させていたのだった。

 重い段ボール箱を抱え、再び自室へ運ぶために階段を上る。

 失った幸せの事後処理をひとつひとつやるたびに、心が傷つけられた。

 自宅に両親と同居しているが、今日はふたりとも出かけているのが幸いだった。昔は数人の家政婦さんを雇っていたのだけれど、今はその余裕もなくなったので、家には誰もいない。

 けれど、婚約破棄されたことを両親に黙っているわけにもいかないだろう。いくつもの段ボール箱を運びながら、問いかけられたときにどう答えようか考えあぐねる。

「ふう……終わった……」

 作業を終えたときには汗びっしょりだった。

 私は腕にかけていたハンドバッグをどさりと床に落とし、お洒落しようと張り切って買った新品のピンクのカーディガンを脱ぐ。

 着飾ることなんて、もはやすべて無意味だった。

 それよりも気になるのは、式場から告げられたキャンセル料である。私は慌ててクローゼットに飛びつき、預金通帳を取り出した。

 戦々恐々たる思いで通帳に記載された数字を追う。指輪代や新居の家具代などを支払うために、かなりの額を引き出している。それらは返品不可なので、購入した代金は戻ってこない。

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