極上極道と秘密の妊活します

沖田弥子

第1話

 きらきらと、世界は光り輝いている。

 なぜなら私――藤宮ふじみや葵衣あおいは、もうすぐ憧れの花嫁になるのだから。

 豪奢なホテルのラウンジは広い窓から降り注ぐ明るい光に満ちていた。微笑みを浮かべた私は卓に置かれたティーカップに砂糖をさらさらと入れる。この砂糖すらも、これからの門出を祝福するように眩く煌めいて見えた。

 ところが、ふいにかけられた婚約者からの言葉に、笑みを貼りつかせたまま顔を上げる。

「……え? 今、なんて言ったの?」

 婚約者の小溝こみぞりょうは、耳を疑うような言葉を吐いたあと、気まずげに視線を逸らしている。

 私たちは一年前に友人の紹介で知り合って交際し、結婚が決まっている仲だ。すでに互いの両親に報告を済ませ、今は婚約中である。二十二歳の私は会社社長である父の秘書を務めていたが、結婚のためすでに寿退社していた。亮は大手商社に勤務している、いわゆるエリートサラリーマンだ。

 絵に描いたような、順風満帆な結婚への道のり。

 そのはずだった。亮から、衝撃的なひとことを告げられるまでは。

「だからさ、結婚、なしになったんだよ」

 彼は顔をしかめて、居心地悪そうに膝を揺らした。その動きはテーブルを振動させる。紅茶の水面が不穏に波打った。

 貧乏揺すりをするのは面白くないことがあったときの亮の癖だが、いったい何が彼をそんな気分にさせているのか理解に苦しむ。

「……結婚がなしって、どういうこと? だって式は来月なのよ? もう招待状を出してるし、ドレスも決めてあるのに……」

「だから! 結婚できないんだよ」

 声を荒らげたので、周りにいた客が不審な目をこちらに向ける。結婚できないの一点張りは駄々をこねる子どものよう。そういった彼の幼稚な態度に溜息をつきたくなることもこれまでに多々あったが、私は辛抱強く我慢してきた。

 けれど、結婚できないと言われたことは見過ごせない。

 なぜ突然そんなことを言い出すのだろうと混乱しつつも、穏やかに問い質す。

「わけを聞かせてちょうだい。何かあったの?」

「あのさ……上司命令なんだよな。ほら、出世するためにはさ、役員の娘と結婚しなきゃならないだろ。葵衣は社長令嬢っていっても、会社が破産しかけてるおちぶれ令嬢だろ。株価でわかるんだよ」

 ぼそぼそと呟いた亮は、恨むように私を睨みつけた。

 これまでは楽しく結婚式の打ち合わせをしたり、デートしていたはずなのに、彼の豹変ぶりに戸惑いを隠せない。

「え……役員の娘さんと結婚するの?」

「そういうことじゃないんだよ。なんで会社が危ないことを黙っていたんだ。それを知ってたら、俺も言うこと違ってたんだよ」

「うちの会社の株価が下がってるのは事実だけど、でも破産なんてしないわよ。会社のことは大丈夫よ」

 なだめながら、頭の中で状況を整理する。

 つまり彼は、父の会社の先行きがよくないから私より、勧められた役員の娘に乗り換えるということなのだろうか。それとも、ほかに好きな人ができた言い訳だろうか。

 そういえば、一か月ほど前から急に連絡が取れなくなったので、どうしたのだろうと首を傾げたことがよみがえる。私のほうも引っ越しの準備や仕事の引き継ぎなど、新しい生活へ向けて忙しかったので、亮もそうなのだろうと思っていた。そうして今日、ホテルのラウンジで久しぶりに会うことになったので、杞憂だったと安堵したばかりなのに。

「もう今さら、やっぱり結婚はやめるなんて、できないじゃない。だって結婚式の招待客もお料理も全部決まって、新居の契約だって終わってるし、それに……」

 ガタン、と大きくテーブルが揺れた。

 突然、亮が立ち上がったからだ。考えを改めてもらおうと言葉を尽くしていた私は口を噤む。

「葵衣のせいだからな」

「えっ?」

「破産しそうなことを黙っていたんだから、詐欺だろ。訴えられたくなかったら、結婚式のキャンセル料やマンションの契約にかかった費用諸々、全額払ってくれよな。それでなかったことにしてやるよ」

 言い捨てた私の婚約者だった男は、逃げるようにラウンジから走り去っていった。

 その背中が見えなくなったあと、呆然としてテーブルに目を落とす。

 つい先ほどまで幸せだった私は紅茶に砂糖を入れていた。そういえば、あのスプーンはどうしたのだろうとふと思ったが、ソーサーに横たえられていた。まばらに砂糖粒を零しながら。

 あの幸せの絶頂にいた私は、もういない。

 どうして、こんなことになったの……?

 このあとはふたりで式場へ行って、結婚式の最後の打ち合わせをするはずだったのに。

 現実を受け入れられず、ぼんやりとしていた私の目に、テーブルに残されていた会計伝票が映る。 

 亮の注文した珈琲と、砂糖が入りかけの紅茶とで会計千九百六十円。

 一切手をつけていない亮の珈琲は、とうに冷めていた。

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