第16話 王宮狂想曲 3♡
「アレク、マシュウの授業が始まるから先に行くわ」
声が少しおかしかった。焦っているからなのかー、アレクセイが眉根を寄せた。
「そうか」
挨拶もそこそこで、口元を拭いながら、琉生斗が退出した。
「兄上、この間の件で報告が・・・」
クリステイルが話しかけるより先に、兵馬がアレクセイに小声で囁いた。
頷いたアレクセイは、「父上、御前失礼致します」と、頭を下げ部屋から出た。
「この前、聖女ジャンヌの話を聞いたのだが、詳しく聞かせて欲しい」
「はいはい、ある日神の啓示を受けたジャンヌがですね…」
ーー何だったのだろうか。
クリステイルは首を傾げた。
「ルート!」
全速力で走る琉生斗を軽々と掴み、アレクセイは転移する。自室の洗面所に連れていき、琉生斗に口を開かせた。
「うぇっ」
琉生斗は血が混じった唾液を吐いた。
カランっと、洗面台の上に尖った金属の破片が落ちた。
アレクセイの顔色が変わった。色を失くすとはこういう表情なのだろう。
「あが、い、痛っ」
琉生斗の口を開ける。舌の奥が切れている。
「いてーよ!」
と、強く言った琉生斗だが、アレクセイの顔を見て言葉を失った。
そんな顔すんなよーー。
心が押しつぶされそうな、泣き出しそうな顔ーー。
「だ、大丈夫。偶然、入ったんだろー」
極めて明るく琉生斗は言った。
「よく、わかったなー。うっかり飲み込みそうになってさー。あっ、兵馬かーー」
あまりに悲しそうなアレクセイの顔に、琉生斗も困惑した。
「なっ、気にすんなってーー」
「ーールートは、なぜ自分を大切にしない」
アレクセイの声は静かで、噴火前の山を連想させた。
「偶然ではない。きみを傷つけようと悪意を持った者がいた。あの場で犯人を挙げてもよかった。私は、」
深い海の藍色が、荒れる波のように揺れた。
「絶対に許さない」
怒りに満ちているのに、激昂はしない。その姿が恐ろしく、美しかった。
「ーー聖女だもんな。おれ……」
口に出さないようにしていた言葉が、勝手にでた。
アレクセイが、鋭い目付きで琉生斗を見る。
「聖女だから、なんだ」
「いや、死んだら、今のところ代わりいないから。だからーー」
大事にしなきゃならないーー。
「困るんだろうーー?」
我ながら、すごい嫌な事を言っている。
こんな、卑屈な言葉、誰が聞きたいのかーー。
返ってくる言葉は肯定だと思うと、心が苦しくなった。
「ーー困ればいい。こんな国。滅べばいい」
アレクセイが言い切った。
琉生斗は、言葉を失った。
「ルートがいない国など、私はいらない。言ったはずだ」
きつく、抱き締められる。
「生涯をかけて、守るとーー」
キスは血の味がした。
「傷つけて、すまない」
どちらの傷の事を言っているのか、両方の事なのかはわからないが、琉生斗の胸の奥が、切なげに呻いた。
言うな、絶対に言うなーー。
琉生斗は口を開かないようにした。
話してしまえば、もう戻れないーー。
「だって」
琉生斗の口は、理性より気持ちを取った。
「ーーアレクは王族だから、おれと結婚しなきゃならないんだろ」
口に出した言葉は、完全に拗ねだった。
何拗ねてんだよ、おれはーー。
こんなん、おれアレクの事すげぇー好きって言ってるようなもんだろーー。
「事実を説明しただけで、私の気持ちではない」
アレクセイは、琉生斗の口の中を治癒した。
「私はもう、きみがいないと生きていけない」
きつく巻いたアレクセイの手が、琉生斗の身体を撫でた。
「ルートが欲しい」
耳元に、最高級の囁き。琉生斗は気絶しかけた。
「お、おまいさんの気持ちはよくわかったーー。おれが悪かったーー」
疑うのは簡単。負の気持ちの方がすぐに湧く。
信じる事が、こんなにエネルギーがいる事なのだとは思わなかったーー。
「だから、手入れるなって、マジでやめなさいって。もうマシュウじいちゃん来てるって」
「休む?」
「休まない!ちょっと、どこさわってんだぁぁぁぁー!」
「ねぇ、まずかったんじゃないの?」
「何よ。あなたがやろうって言ったんでしょ?」
「騒ぎにもならなかったから、大丈夫だったんじゃないの?」
王族の湯茶準備をする厨房室で、メイド達は、ひそひそと会話をしていた。
「聖女ってだけで、殿下達をはべらして、下品な方よねぇ」
「今度来たら、虫でも入れてやろうかしら」
「あなた捕まえてきてよー」
「ーーそうか。手厚い歓迎だな」
地の底から響いたその声に、メイド達は身体を強張らせ、ガタガタと震えだした。
「あ、あっアレクセイ殿下」
いつからいたのか、物音も気配もしなかった。
自国が誇る美の化身が、壁にもたれている。
アレクセイはゆっくりと身を起こし、メイド達に近付く。
「遊びにしては、度が過ぎているようだな」
死刑宣告を受けたような、想像を絶する恐怖に、メイド達は腰を抜かした。
「も、申し訳ありません!」
「に、に、二度とこのような真似は!」
「許すと思うか?」
この上なく静かに、この上なく恐ろしく、アレクセイはメイド達を見下ろした。
死だーー。
彼女達の脳裏に、死が浮かんだ。
「どうしました。お兄様?」
扉から顔を見せたのは、末の弟のセージだった。
クリステイルと同じプラチナブロンドの髪の毛、緑色の中に青が混じる瞳。幼いが整った顔立ち。
「失せろ」
アレクセイの言葉に怯む事なく、セージは口を挟んだ。
「さすが、生まれが低いだけはありますね。お口が悪い」
セージは臆する事なく、メイド達に近付いた。
「行きなさい。もう大丈夫ですよ」
「ありがとうございます!」
腰を抜かしたメイド達を立たせて、この場から離れさす。
「なるほど」
アレクセイは、黒幕に気づいた。
「貴様か」
「口の聞き方に気をつけろよ。平民のお兄ちゃん」
セージはにやにや笑いながら、アレクセイを見下すようにみた。
「聖女様と婚約なんてうまいことやったねー。これで、家族から、捨てられなくてすむなぁ。必死過ぎて笑える」
肩を揺らしながらセージは続けた。母親が違うとはいえ、純粋なクリステイルの性格とは大違いだ。
アレクセイの頭の中に、父がつけた黒い指輪が浮かんだ。
「家族?私に攻撃ができないからと、聖女様を傷つけた小者など、こちらがお断りだ」
「はっ、平民が。聖女様がついたからって調子に乗りやがって」
「セージ」
アレクセイは石壁を拳で軽く弾いた。まるで、ノックでもするようにーー。
バシィーーーッ!
壁一面が、大きくヘこんだ。
セージは、目を大きく開いた。
「なっ!」
「ーー喧嘩を売るなら、魔力なしでこれぐらいできるようになってからにしろ」
青ざめた表情に呆れながら、アレクセイは言葉を紡ぐ。
「今のおまえでは、買う価値もない」
「なっ!」
「何を言って唆したかは知らんが、悪意はおまえの足元を掬いにくる。今後、このような真似はするな」
弟を見据え、告げる。
「次は、ない」
呆然としているセージを置いて、部屋を出る。
廊下を歩いて行くと、先にクリステイルと兵馬が立っていた。
「兄上!」
「何もない」
「そんな訳ないでしょ!」
すごい音でしたよ!、とクリステイルは騒ぐ。
「ヒョウマ、礼を言う」
「どういたしましてー。あいつ、空気読むのうまいでしょ。普段はギャーギャー言って騒ぐのに、本当にダメなときは、絶対言わないんだよ」
兵馬の言葉に、アレクセイは頷いた。
「何があったんですか?」
「壁直すの忘れた」
「そんなのセージが、やりますよ。あいつまた兄上を怒らせたんですかー」
子犬のようについてくる弟。これはこれで可愛い面もあり、面倒くさい面もある。
「父上付きのメイド達を入れ替えてくれ」
「ーーわかりました。王妃様に申し上げておきます」
兄の顔からは何もわからなかったが、クリステイルは従った。
「おまえに頼む事でもないがなーー。すまない」
クリステイルは目を見開いた。
「とんでもありません、兄上」
ーー私がどれだけあなたを慕っているのか。王になるよりも兄上の下で仕事ができたらー、とクリステイルは密かに思っているーー。
「魔法騎士の演習の時期がやってくるな」
「はい」
「今年は私が出よう」
「えええぇぇーー!」
クリステイルの叫びが、広大なる王宮にこだましたのを、アダマスは笑いながら聞いていたというーー。
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