第一章 網谷茉美

 昼前、網谷あみや茉美まみは、母親が買い物に行くと言うので同行することにした。

 今年三十を迎える茉美は、高校卒業後には県外で職を転々とし、病をきっかけに実家へと出戻ってもう二年目になる。彼女は両親の家業を継ぎ、これまでの多忙さとは無縁の日々を送っていた。毎日数少ない業務をこなし、空いた時間には掃除をしながら、日がな店番をしている。いい年をして実家に住まわせてもらっている上、仕事まで面倒を見て貰っている恩もあり、高齢の母親が出掛ける際には今日の様に手伝いに同行することが茉美の習慣になっていた。時々店のことで手が空かない日があっても、母から「お父さんは手伝ってくれない」と泣き言を言われれば、彼女はすぐさま手を止めて駆けつける程だった。

 この田舎にあって彼女は車を持っておらず、母に呼び出されるのは、何かと気分転換に都合が良かったということもある。

 茉美は着古したパーカーを羽織り、サンダルを履いて、母の車へと乗り込んだ。

 

 馴染みのスーパーへ母と共に入店すると、茉美は早速たじろいだ。今日はやけに人が多い。それも子どもがやたらと目に付く。嫌だなあ、と茉美は顔をしかめた。子どもとくれば、当然彼らの母親も居る。彼女は自分の後ろでカートにカゴを乗せている真っ最中の母にはばれないよう、起きてからまだ一度も櫛を通していない自分の長髪を軽く手櫛でといた。自動ドアのガラスに、くすんだ自分の姿が映っている。突如生まれた暗い気持ちを振り払う為に、茉美は過剰な程快活に、カートを押す役を母へと申し出た。

 パン屋、野菜売場、肉、魚の並んだ冷凍ケースの周辺を、茉美と母はゆっくりと進んで行った。母の買い物は彼女からすれば非常にスローペースで、道中眠ってしまいそうな程だったが、時折「どっちが良いと思う?」などと尋ねられることもあるので油断はできない。茉美はあくびを殺しながら、ナマケモノにでもなったつもりで母の背を追いかけていた。

 途中、不意に母が調味料の棚の前で立ち止まると、茉美はいよいよ手持無沙汰になった。仕方ないので、放置してきた店のことや、何となく気になりだした自分の見目形について考えることで時間を潰し、少しぼうっとしてきたところ、突然彼女の目の端をすうっと、白く丸いものが横切った。

 それは、店内の照明に照らされて、つやつやと輝いていた。加えて軽く上下に、不規則に動いている。茉美はその光沢が表すゴムの質感に、胸中がぞわりと波打つのを感じた。

 見れば、同じ列に留まっている親子、その子どもの方が、片手に白い風船を持っている。何と言うことは無い、彼らが隣を通り過ぎただけなのだ。しかし、茉美にはそれがそれだけとは到底思えず、親子を、風船を凝視してしまう。

 風船を持っているのは、大人しそうな色白の男の子だった。小さな手にあの細い紐をしっかりと握ってはいるが、どうも足元が覚束ないようで、頭上の風船と共にゆらゆらと小刻みに揺れている。母親の方はと言えば、茉美の母とは反対側の棚に手を伸ばし、何やら物色している様である。息子には余り注意がいっている様でない。

 茉美はすっかり気が気でなかった。

 まるで金縛りにあったかのように動けず、その場で磔にでもされてしまった様だった。落ち着かなければ、と思う意思とは裏腹に心臓は早鐘を打ち、次第に手足の指が汗ばんでくる。肌の表面にはぴりぴりとした痛みまで走りだした。

 彼女の頭の中で、自動的に、或る幼い日の思い出が再生された。

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