第二章 風船恐怖症

 記憶の中で茉美は、小学生頃の幼い体に戻っている様だった。

 辺りは楽しげな雰囲気であり、彼女からすれば懐かしい、今の家に引っ越す前の家に居た。

 ”前の家”である此処は、茉美の生家である。今の網谷家が住んでいる地方とは真逆に位置した他県にあり、古い立派な家だったが、災害を機に現在の住まいへと転居したのだった。

 前の家には、現在の住居には無い広々とした和室があり、幼少期、茉美はその部屋が自分の部屋よりも好きだった。普段そこは客間として使われるものだから、彼女は大人の目を盗んでは畳へ寝そべり、周りを海である様に空想してよく遊んでいた。畳の何畳も敷き詰められた様が、その畳の目の重なる様が、幼い彼女には波に見えていた。

 そんな思い出のある和室の土壁にでかでかと、幼い茉美の見ている前で、突如「ハッピーバースデー」とカラフルに彩られた看板が掲げられる。茉美が呆然と見ていると、こちらもやはり若い頃の姿をした母が「良かったわねえ」と背後から近寄って来た。母は茉美の肩に手を置くと、「お父さんが用意してくれたのよ」と囁く。

「お友達も呼んでおいたからね」

 この時、茉美は母に疑いを覚えたものだった。あの日、幼い茉美は今日のことなど何も想像がついていなかった。

「これって、私のお誕生日会なの?」

 母は応えなかった。くるりと踵を返し、自ら招待したと言う茉美の同級生たちを玄関から次々家の中へと連れ込んでくる。中には彼女があまり話したことのない同級生も居て、茉美は何故だか気恥ずかしくなった。

 夢の様に場面が転換する。

 途端、軽快な音楽と共に、猿に扮した着ぐるみの女性が現れる。歓声を上げる周囲に紛れて、今日の主役である茉美はまたも呆然とこれを見ている。猿の女性は音楽に合わせて踊りながら、いつの間にか手に持っていた細長い風船に息を入れ始める。茉美は怖気だった。

 猿の女性は風船に息を、入れて、入れて、入れて、これ以上は割れてしまうと言う限界まで膨らんだところで、くるくると回る様にして観客達に笑顔で見せびらかして笑う。それを突如、もう片手に摘まんだ針で割った。破裂音。笑い声。猿の女は繰り返す。風船に息を入れる、割る。息を入れる。割る。たまにひねったりねじったり、焦らすように、何か形を作りそうな雰囲気を醸しつつ、しかしあと一歩のところでやはり割る。皆が楽しげに、わざとらしく、がっかりしたり歓声を上げたり、声の波を上下させる。その波の真ん中で、いつの間にやら幼い茉美も笑っている。両手で耳を塞ぎ、目にいっぱいの涙を溜めながら笑っている。それに気づいた同級生の子ひとりが、茉美を指さして茶化すように嘲った。茉美はそれにもニッコリ笑顔を返す。その背後では彼女の母親が周囲より一層けたたましく笑いながら、「楽しいね」と茉美の肩に手を置いている。茉美は依然耳を塞ぎながら、「うん。お母さん、ありがとう」

 

 不意に体に触れられる感触がして、茉美は現実へと立ち返った。思わずきゃっと悲鳴を上げて周りを見回すと、あの小さな男の子が、風船を抱きしめる様に両手で胸に抱える格好をして、茉美のすぐ隣に立っている。力加減を分かっていないのか、風船は彼の小さな手と体とに圧迫されて、ぎしぎしと不穏な音を立てている。

 母が、「ちょっと、大丈夫?」と茉美の肩に触れた。茉美は精いっぱい苦笑いをつくって見せると、驚いた様子で居る若い親子と自身の母親には何ひとつ言うことなく、足早に店外へと向かって行った。

 彼女はそのまま店の出口付近でじっとしていたが、しばらくして母親から着信を貰うと、溜息してからそちらに向かった。流れ作業の要領で支払いを済ませ、買ったものを袋に詰めていく。その間あの親子はどこにも見当たらず風船の影も形もなかったが、体内に渦巻く不快感は続き、それが茉美の眉間に深い皺を作っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る