犬神真偽は祈らない



 犬神いぬがみ真偽まきは夜の山を歩いていた。

 太陽の光を失った山は暗く、寒い。腕や足に鳥肌が立つのを無視して、彼女は必死に歩みを進める。


 浅海が捕まってからほぼ二日が過ぎた。彼がヤオバミ様の贄として扱われ、地下室の座敷牢に閉じ込められていることは知っている。何せ、屋根裏から覗いていたので、大体の話は筒抜けなのだ。

 そして、彼を閉じ込めている座敷牢の鍵が、龍神様を祀っていた祠に隠されているということも、今の彼女は知っている。


「はっ、はあっ……うぅ、キツい……」


 真偽まきは泣きそうになりながら山を登った。人の手入れがされているとはいえ、夜の山はほとんど凶器の塊みたいなものだ。彼女の腕や足には、木々や岩による擦り傷がみるみる刻まれていく。


 ああ、と心の中でため息をつく。

 まただ。今回もダメだった。今回も彼を危険にさらしてしまった。どうにかなると思っていたのに……

 だけを急いで達成して、フィールドワーク以上の何かなんてないまま、この村を出られると思っていたのに。


『ふふ、そんなわけがないのに。毎回ちょっとお馬鹿だね、君は』


 不意に、暗闇から声がした。男のような女のような、そのどちらでもないような、不可思議な声だ。春の日差しのように麗らかで、冬の朝のように容赦のない声。

 どこから響いているのかも判然としない声に向かって、しかし彼女は怯えるでもなく、ぴしゃりと言った。


「そんなこと、分かってるよ」


 浅海が聞いたらぎょっとするような固い声だった。彼がここにいなくて良かった、と思ってしまう。

 あの人は優しいから――自分が危険な目に遭っている原因が目の前にいるのに、その様子がいつもと違うと、あからさまに心配するのだ。


 浅海がこんなことになっているのは、全て自分のせいだと、彼女は分かっている。全部、全部分かっているのだ。それでも、こうするしかなかった。

 選べるものがある人は幸運だ。犬神真偽の目の前に差し出された選択肢は、いつも一つしかない。


『助けが必要かい、愛し子』

「まだいらない。簡単に神頼みなんてしちゃいけないって、おばあちゃんから習ったもの」


 幼子のように首を振る。耳の奥で、祖母の穏やかな声が響いた。


 ――いいかい、真偽。

 それがどんなに光明に見えても、目の前に差し出されているものがそれしかないと思っても、決して、みだりに神様に頼みごとをしてはいけないよ。

 かの方々のお心は、私たち人間とは、まるで違う形をしているのだから。

 何を要求されてしまうのか、分かったものではないからね――


 唇を噛み締める。

 分かっていた。分かっていたのだ、ちゃんと理解していた! 自分がそういう存在であると! だからこそ、初詣ですら願い事を言わず、かすかなことにすら祈りはせず、目立たないように、見つからないようにしていたのだ。

 それでも、ダメだった。

 自分の犯した罪を償うには、対価を払わなくてはならなかった。


「浅海先輩……」


 目の端に浮かぶ涙を無理やり拭って、祠を目指して歩く。

 真偽はいつも、自分が遅いという自覚がある。気づいたときには、取り返しがつかなくなっていることがあまりに多い。

 だから今回もダメだったのだ。彼を救うために対価を払ったのに、その道のりでまたしても、彼を危険にさらしている。

 

『頑張るねえ、愛し子。そこを右だよ』


 不意に響いた声に、真偽はぱちぱちと瞬いた。一瞬迷いながらも、おずおずと右に曲がる。けもの道が緩やかに人の手の入った道になっていくのを見ながら、ちらりと暗闇の中を見た。


「……なんで、道……教えてくれる、の」

『君はいつも迷うからね、サービスみたいなものだ。これでも私は君を愛しているんだよ、愛し子』


 それは確かに、とぼんやり思う。いっとう大事なものを失いそうになった真偽に手を差し伸べたのは、この酔狂な御仁だけだった。あのときの自分にとって、それは確かな光明だったのだ。手を掴んだことを、決して後悔していない。

 それでも、犬神真偽は祈らない。それがどれだけ恐ろしい行為かを、もう知っているから。


 だってもう失いたくない。ただでさえ取り戻している最中なのに、再び失われたら、きっと取り返しがつかない。


 だから今日も、彼女は進み続けるしかないのだ。


 そのとき、不意に足元をがさがさっと何かが通り抜けて、真偽は思わず足を止めた。顔を上げれば、山道の中にぽつんと建つ、こじんまりとした祠が見えた。

 この前見たやしろを、さらに小さく、膝丈くらいに縮めたような形をしている。多分、この祠を模して、あの社を作ったのだろう。


 祠の隣には何故か、とぐろを巻いている蛇が一匹いた。

 蝋を固めたような白さを放つ体と、鮮血のような赤い瞳が、月光に照らされてじっとこちらを見ている。


 かみさまだ、と真偽は思った。


 いや、見た目は明らかにただの蛇なのだけれど、でも普通の蛇が、人間に驚きもせず襲いかかりもせず、悠々ととぐろを巻いて座しているものだろうか?

 いや、と思う。

 何でもよかった。ここにいるのが神でも鬼でも、真偽がやることは同じだ。


「ごめんなさい、ヤオバミ様」


 もしかしたら違うかみさまかもしれない。けれどあいにく、ここにいるらしいかみさまの名を、真偽は一つしか知らない。


「あなたの昔の家を壊します。ごめんなさい。許してくださいとは言いません。私のことは地獄で好きなようにしてください」


 かみさまに祈ってはいけない。何を対価にされるか分からないから。生きているうちに対価を捧げてはいけない。生きているになってしまうから。

 八百万やおろずの神が生きるこの国で、神の愛し子は、きっぱりと宣言した。


「ごめんなさい。先輩を助けるための鍵をもらいます」


 白蛇はじっとこちらを見つめていた。ちらちらと舌が鞭のようにしなる。だが、牙が剥かれることはない。

 真偽は祠の屋根の部分に手をかけた。本当はきちんと扉を開けられればよかったのだけれど、そこにも丁寧に鍵がかけられていた。鍵を持っているのは浅海を取り押さえたあの女性で、真偽に鍵を奪う力はない。


 だから、こうするしかなかった。

 屋根がべきべきという音を立てて剥がれていく。元々古い祠だったからか、女一人の力でも壊すのに時間はいらなかった。鍵は大事に守られていたのに、そもそもの錠前自体があまりに脆い。

 多分、祠を壊す人がいるなんて思ってもみなかったのだろう。因習村なんてそんなものだ。


 屋根はその形を保ったまま綺麗に外れた。祠の内側に手を突っ込んで、中の鍵を取り出す。

 重厚で、ところどころ錆びついたそれを見て、ほっと息を吐いた。良かった、きちんとあった。


 安堵の吐息をこぼしたとき、どこかもの欲しげにじっと見つめてくる白蛇に気づく。数秒見つめ返しても目が逸らされることはなく、真偽は眉を下げた。


「えっと、ごめんなさい。今、これしかなくて」


 ごそごそと後ろに背負ったリュックから取り出したのは、龍蛇村の名産品でもある地酒だ。座敷牢の見張り番を眠らせるため、村長の家の中でくすねたものだった。


「うーん、これくらいかな……」


 一緒に持ってきたおちょこの中に酒を注ぐ。そのまま蛇の前にすっと差し出した。

 浅海がいたら「動物に酒を飲ますな!」と一喝していただろうが、残念ながらここに彼はいない。彼女の行動を止める者は誰もいなかった。


 だが意外にも、白蛇はおちょこの内側をちろりと舐めると、気に入ったのか頭を突っ込んでごくごくと酒を飲み始める。すごい勢いだ。


「お腹、すいてたんですね……?」


 絶対にそういうことではないが、ここに浅海はいないので突っ込む人間もいない。

 真偽は上機嫌で酒を飲む蛇を見ながら、ぽつんと呟く。


「ごめんなさい、あのとき、止められなくて。かみさま、優しいから……蛇のミイラ、投げられて、怒っちゃったんですよね」


 ふっと、蛇が頭をもたげる。

 社にいたあの男女は、いつの間にかいなくなっていた、この二日間、合間に彼らを探したが、痕跡一つ見つからない。

 彼らのことを思い出して、真偽はふるりと首を横に振った。


「ヤオバミ様、敬われてるように見えたのに……そうじゃないのかな……」


 得てして、人間が用意する贄なんてものは、神にとっては不要なのだ。神は人とは異なる理で生きているから、自然災害に似た被害をもたらすことはある。でも、対価を渡せば鎮まってくれるものでもないし、人の尺度で測る対価なんて、神にとって価値はない。


 だが、神が残酷であるのと同じくらい、人間は愚かな生き物だ。村長はヤオバミ様を敬っているように見えたが、実はそうでもないのかもしれない。

 実際、あの男女を社に誘導したのは、おそらく村長だろう。大体「加護」の話からしておかしかった。いくら村おこしのためとはいえ、贄すら捧げるほどに畏怖の念を抱く神の社に、よく分からない人間が来るのを良しとはしないはずだ。


 だから多分、あの「加護」についての話は罠だ。よそ者をこの村に呼び出し、かみさまの贄とするための。

 真偽はため息をついた。贄を与えれば、神が対価を支払ってくれると思っている人間は多い。


 そんなわけがないのだ。対価を払うのはいつだって人間で、神ではない。


 それを分かっていない者から順に、ゆるやかに深淵に落ちていく。


 そのときちょうど、白蛇が酒を飲み終えたらしい。少しふらふらとしながら、真偽の指に頭をこすりつける。


「許してくれるんですか? ……ありがとうございます」


 蛇の頭をちょんと撫でて、ゆっくりと立ち上がる。ここ数日、ろくな場所で眠れていない体は、節々がきりりと痛む。

 けれど、まだ折れるわけにはいかないのだ。


「行かなきゃ、先輩のとこ……」


 目に確かな光を宿らせて、犬神真偽は歩き出した。

 まだ暗い空を背に、ふらつく足取りで民宿を目指す。目を何度か瞬かせて、首を振って、こわばった頬の筋肉をほぐす。浅海の前で、焦燥した姿なんか見せられない。


 こんなことを思うような人間じゃなかったのにな、と、不意に思った。


 真偽の楽観的な性格は生来のものだ。笑顔を取り繕う必要なんて今までなかった。笑いたいときに笑ったし、泣きたいときに泣いた。素直に全てを言葉にしていた。

 でも、そうあれていたのは、今までかみさまにお目こぼしされていたからだったのだと――ちょうど一年前の十月、神在月かみありづきの祭事で、彼女はようやく思い知ったのだ。

 だから、やっぱり自分は、いつも遅いのだろう。


 それでも笑わなければ、と思う。彼に気づかれないために。全てを水の泡にしないために。そのために、進んで、進んで、進んで、進むしかない。振り返らず、真偽は山を降りた。


 そうして彼女が座敷牢に辿り着き――ここでようやく、冒頭に戻る。


「先輩、先輩! 村長さんが言ってた、『ヤオバミ様』を祀ってるとかいう祠、壊してきました! そしたらほら、座敷牢の鍵ありましたよ! 鍵! これで出られます!」

「はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜……」


 果たして、この先の道に出るのは鬼か蛇か、彼女にもまだ分からない。

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