起死回生(1)
再会した犬神から事情を聞いた五分後のことだった。がちゃん、と重厚な音がして、浅海は自由の身になった。彼が閉じ込められていた座敷牢の錠前が、呆気なく落ちたのだ。
「開きました、浅海先輩!」
「ああ、うん、ありがとうな……」
疲れきった顔で座敷牢を出たところで、浅海はぐっと体を伸ばした。ずっと座り通しで体が痛い。そもそも今の浅海は何故か、死人が着るような白装束を着せられており、身動きが取りにくい状態だった。
「あー、犬神、俺の服知らないか」
「見てないです……バッグは捨てられてなかったので持ってきたんですけど、服はぽいってされたのかも」
「ありえる……くそ、服減るのは痛いな……あれまだ結構着れたぞ」
今回は山登りもするかもということで、割と丈夫なものを着てきたのだ。それがこんなぺらぺらな死装束になってしまった。
命が助かるなら服の一枚や二枚安いものだが、助かった後だとどうしても恨みが先に立つ。貧乏を舐めないでほしい。服の恨みはほとんど一生モノだ。
「弁償しますよ。元はと言えば私が来たいって言ったからこんなことになっちゃったんですし……」
「は? 弁償するならこの村のやつだろ。後輩に払わせてどうする」
こつん、と額をこづく。きょとんとした顔は本当に分かっていなさそうだったので、ついでに頬もつねっておいた。変なところで律儀にならなくていい。
「それで、これからどうする? というか、外はどうなって……いや待て」
浅海は咄嗟に目の前の後輩の肩を掴んだ。きょとんと瞬いた瞳がこちらを覗き込む。
「どうしたんですか?」
「お前、見張りはどうした」
すさまじく遺憾なことに、自分はヤオバミ様とやらの贄なのだ。地下室に監禁されるだけではなく、そこに通じる扉にも見張りがいたはずだ。
だが、彼女はにっこりと笑って言った。
「酔いつぶれてますよ。さっき、私がお酒飲ませたので」
「は?」
「村長さんからの差し入れです〜って、くすねた日本酒渡したらころっと」
「嘘だろ、ガバガバすぎる」
因習村の住民ってどこもそんなに
「いや、今はいい。それより早くこんな村出るぞ。警察は呼んだか?」
「それが……ここ、ろくに電波通ってないじゃないですか。
「何?」
浅海は眉をひそめた。龍蛇村の前にはひとつの大きな吊り橋があり、そこを通らないと村の入り口までたどり着けないようになっていた。浅海たちも、せっかく犬神家に車を出してもらったが、結局は途中で降りて橋を渡ったのだ。
だが言い換えれば、あの橋がなければ、自分たちはこの村から出られない。
「おい待て、詰んでるじゃねえか」
「大丈夫です、これがあるので!」
にぱっと笑った彼女が懐から取り出したのは、何やら小さな装置だった。楕円形のシルエットをしていて、中心にボタンがある。上部に紐が付いていて、キーホルダーのようにも見えた。
浅海は咄嗟に、末の妹が持っている可愛らしい防犯ブザーを思い出した。あれに似た造形をしている。
「なんだこれ」
「犬神家専用緊急連絡装置です。これ、特定の回数を押すと、それに応じて犬神家にエマージェンシーが届くようになってて」
「何がなんだって?」
「モールス信号でSOSって打ったので、多分もうすぐヘリが来ます!」
「なんでお前はそうホイホイ俺のキャパを超えてくる!」
反射的に叫んでしまい、はっと口を押さえる。見張りが起きたら
「いや……まあ、とりあえずここから出るのが先か。説教はその後だ」
「え、説教されるんですか私?」
浅海は答えず、犬神の手を引く。座敷牢の出口に向かいながら、首だけで後ろを振り返った。
「ヘリが来るのは? この村のどこだ?」
「多分、お社のほうです。私がこのボタン押したのそこなので、位置情報が伝わってるんじゃないですかね」
「それ、位置情報伝えることもできんのか……」
浅海は認識を少し改めた。犬神家は、意外と彼女の手綱を握っているのかもしれない。
「なるほどな、じゃあとりあえずそこ行くか。お前、どこも怪我してないな?」
「ぴんぴんしてます! あ、村長さんの娘さんにも眠っておいてもらったので、襲われたりはしないと思いますよ。ただ、村長さんだけ見つからなくて……」
「お前、さっきからすごいことしてるな……」
確かに好機を狙えとは言ったが、そんな大太刀回りをしろとは言っていない。怪我をしたらどうする。
だが疲労で怒る気力もわかず、浅海は代わりに彼女の手をぐっと握った。こうやって繋いでおかないと、どこに行くか分からないのが犬神真偽という女だ。
「うわ、本当に寝てる」
外に出てみれば、見張り番だった男たちが二人、酒瓶を転がしてぐうすかと寝ている。アルコールの匂いがすさまじい。どれだけ強い酒を飲んだのだ。
「先輩、あっちが出口です」
大の男二人を酔い潰した女がからりと言う。
犬神が指さす方向には、確かに玄関扉が見えた。よく見れば、受付の隣にあった壁をくり抜くような形で、地下への扉が作られていたらしい。あまりに堂々としすぎだ。因習村には慎ましさとかいう概念はないのか?
二人は外に出て、小走りで社のほうへ向かった。道を覚えているか怪しかったが、この三日でどうにか土地勘を身につけたらしい犬神に促され、なんとかたどり着く。
というか、犬神はたまに虚空を見ながら「あっちらしいです」とか言っていた。ここ三日でついに宇宙との交信とかしたのだろうか。勘弁してほしい。
ともかく、社にはたどり着いた。正面ではなく、裏手側に来たらしい。見覚えのある社の後ろ姿が、やや離れたところにある。
そして、社の手前には大きな池があった。そういえば、龍神伝説には池が出てくるという。これが、もしかしてそうなのだろうか?
周りはやや薄暗い。おそらく朝方なのだろう。ひんやりとした空気と、朝特有の涼やかな匂いが漂う。
犬神が辺りを見回して、嬉しそうに頷いた。
「うん、やっぱりここなら大丈夫そうですね。土地が開けてるからヘリも来れます!」
「どういう視点なんだそれは……つーか、おい、あんまり社に近づくなよ。何がトリガーになって……」
「蛇になってしまうか分からん、と?」
二人はびしりと固まり、ほとんど同時に振り向く。
池のほとりに、薄気味悪いほど柔和な笑顔をうかべた村長が立っていた。
浅海は咄嗟に犬神の腕を引っ掴み、自分の後ろに回す。
「犬神、そこにいろ。俺が逃げろって言ったら逃げろよ」
「えっ嫌です」
当然のように呟かれ、浅海は虚を衝かれた。彼女はぴょこんと横から顔を出して、村長を見据える。
「だって先輩のほうがぼろぼろですから。それに、ちょうどいいと思っていました。私、あの人に言わなきゃいけないことがあるので」
彼女の目が珍しく据わっている。
「は……言わなきゃいけないこと?」
「そうです。あの人、多分人間じゃありません」
「……は?」
浅海は素っ頓狂な声を上げた。もう一度村長を見る。
六十代後半ほどの年齢に、白いものが混じりつつある髪。相変わらず、孫を前にした祖父のように柔和な笑みを浮かべている。
この状況で微笑むさまは不気味だが、異様なのはその態度だけだ。
だが、彼女はきっぱりと言った。
「だって、おかしいですから。ホームページのあの写真……あれ、三十年前のものなんですよ」
「は?」
思いもよらないことを言われて、浅海は固まる。ほら、と犬神が差し出したスマホには、あのビビッドカラーの文字列と、村人たちの写真があった。
その中心で、蛇のミイラを持って佇む男は、やはり目の前の村長だ。
犬神は「ここです」と言いながらホームページをスクロールし、端の端を指さす。そこにはサイトの更新日が書かれていた。最終日の日付は、ちょうど、三十年前の年号を示している。
浅海は絶句した。
おそるおそる、目の前の村長を見る。変わらない。写真の中にいる男と瓜二つだ。
「村長さん……ヤオバミ様の加護を受けたんですよね?」
「なんだ、意外とお嬢ちゃんのほうが頭が回るなあ」
なんだかそこはかとなく馬鹿にされたような気がしてかちんとくるが、問題はそこではない。
「は……? いや、おかしいだろ。龍神様とか、ただの伝説じゃ……」
「いいえ、先輩。かみさまはいます。お社で騒いでいた男の人が蛇になったの、見たでしょう? あれは祟りに近いものです。ヤオバミ様の化身でもある蛇のミイラを、粗末に扱ったから……」
いつもならなんの宗教にハマったんだと一蹴するところだが、見てしまったものは否定のしようがない。なんだって今回に限ってこんなことに?
今までだったら、人間のヤバい奴が出てくるところだ。なのに急に、神だの、人間じゃないだの……
「あれはヤオバミ様が食らいなさった。ヤオバミ様は優しい神さんだからなあ……傷つけられた蛇たちへの報復をなさったわけだ」
「あの二人をお社に誘導したの、村長さんでしょう? そんなものを無理やり捧げて、ヤオバミ様からどんな見返りが欲しいんですか? ……先輩のことも、そうやって使い潰して贄に仕立てるつもりですか?」
村長は嘲るように笑みを深めた。
「何のことやら。わしらはヤオバミ様のお心を慰めるのが仕事でなあ。怒りが鎮まらないなら、わしらが贄を用意せんと。なあ、お前」
「はい、父さん」
不意に、ものすごく近くで平坦な声がした。
「っ、先輩っ!」
犬神の声がしたと思ったら、視界が勢いよく揺れて、後頭部に衝撃が走った。目の奥に火花が散る。一拍遅れて、地面に叩きつけられたのだと気づく。
「っ……ぐっ……!」
襟元を掴まれて呼吸がままならない。焦点の合わない視界の中で、表情の抜け落ちた女が自分を押し倒しているのが、かろうじて見えた。
「先輩!」
「犬神っ……来る、なっ……!」
息が吐き出されて、同時に気道が締めあげられる。一気に空気を失った体が無意識に暴れ、女の肩や腕を強く打ち据えた。なのに、一切力が緩まない。相変わらずこの女の身体能力はどうなっているのか。
ちかちかと視界が不規則に明滅する。眠すぎてすとんと寝たときのように、急速に視界がブラックアウトしていく。
あ、ダメだ。
落ちる。
「離れて」
ひどく冷たい声が、すぐそばで響いた。
「先輩から離れて!」
直後、一気に燃え上がるような、強く、それでいて泣き出しそうな声がした。同時に何か鈍い音がして、突如として体の上から重みが消える。
浅海は一度強く咳きこんだ。がひゅ、と喉の奥から、鳴ってはいけないような音がした。
息ができる。だが、一度意識を失いかけた体は簡単には動かない。起き上がることもできず、かろうじて視界がぼんやりと回復する程度だ。
「……は?」
かすれた視界の中のものを見て、浅海は目を疑った。
隣に、浅海を襲った女が倒れている。その肩に、深々とナイフが刺さっている。
「な……」
んだこれ、という言葉は音にならなかった。ナイフなんてどこから……
なんとか視線をめぐらせたところで、浅海はさらにぎょっとする。犬神の手に、ひと振りの銀のナイフがあった。白み始めた空からの光を受けて、恐ろしいほど美しく輝く。
「お、い……」
なんてものを持っている。捨てろ。
そう念じたが、言葉にはならなかった。彼女は冷たさと諦めが奇妙に同居した瞳で、浅海を見下ろす。
「先輩、大丈夫だから……そこに、いてくださいね」
「な……」
そんな弱々しい声を初めて聞いた。何も大丈夫じゃない。
お前はきっと今、何も大丈夫じゃない。
だが、視界が再び暗くなっていく。体力に限界が来たらしい。嘘だろ、と思う。こんなところで意識を失ってたまるかと、根性で瞳をこじ開ける。
そこにふっと、光のような影のような、何かが降った。
『ダメだよ、眠り姫は眠っていなくちゃ』
男のような女のような、陽光のような月夜のような、どこか柔らかく、そして冷たい声が降った。
もうほとんど見えない視界の中で、誰かが近づく気配がする。
「だ、れ……」
『ふふ、誰だろうね?』
何も分からないまま、浅海は口をゆがめた。目の前にいるだろう何かの声が、穏やかで心地よく聞こえるはずのそれが、おぞましいほど耳障りに聞こえた。
誰だか知らないが、自分は多分、こいつが嫌いだ。
それが、浅海蒼輔の最後の記憶だった。
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