豹変(2)
柔和な笑みを浮かべて尋ねてくる村長を見て、浅海はハッとした。慌てて立ち上がる。
「そうだっ、お社!」
「うん? 社がどうかしたんか」
「お社のところで大変なことがあって……! ええと、すみません、俺も混乱してて上手く言えないんですけど……蛇が……」
慌てすぎて、自分でも何を言っているんだか分からなくなりながら、浅海は急いで靴を脱ぐ。そのまま村長のところへ歩み寄り、身振り手振りで伝えようとした。
そのとき、村長があっけらかんと言った。
「ああ、ようやく蛇さんになったか、あれらは」
「……え?」
「いやあ、多分、ヤオバミ様の社で何か無礼なことでもしたんじゃないかい。お怒りになったろうなあ。見とるからねえ、神さんは、全部」
「は……」
浅海は掠れた声を出す。背中に冷たいものが伝った。
何だ?
何か、おかしい。
「でもまあ、ヤオバミ様のお怒りは鎮めないといかんし、うん、贄はもう少しあってもいいな」
勘だった、としか言いようがない。
真っ黒な瞳が自分を見つめた瞬間、浅海は本能で振り返った。
「犬神、逃げろ!」
刹那、視界が上から下にどんっ! と急降下し、目の奥で火花が散った。背中に勢いよく何かが落ちてきて、胸から床に叩きつけられたのだ。
「ぐぅっ……! げほっ!」
肺の中の息が全て吐き出され、盛大に咳き込む。
「ああ、お前、もう少し丁寧に扱うんだよ。贄が傷だらけだと、ヤオバミ様もあんまりいい気分はせんだろう」
「はい、父さん」
異様に抑揚のない声が頭上から響く。だが、かろうじて聞き覚えがあった。昨日、受付にいた女性の声だ。
すさまじい力だった。バイトで体力仕事をしている浅海にも振りほどけない。おそらく女性の全身が背中に乗っているが、それだけで出せる力だとは思えなかった。
いつの間にか両手は後ろにひとまとめにされ、首から上くらいしかまともに動かせそうにない。
前方で「浅海先輩!?」と叫ぶ声がして、浅海は必死に顔を上げ、声を張った。
「来るな! そのまま逃げろ!」
犬神がびたりと足を止めた。しかし、その視線はあからさまに迷っている。
ダメだ、彼女は自分を見捨てて逃げるような人間ではない。分かっているから、浅海はもがいた。
「何が何だか分からんが、俺のことはいい! 逃げろ! お前まで訳分からん目に遭ったら、俺はお前の家族に殺されるぞ!」
「わ、私のお父さんもお母さんもそんなことしません!」
「いいから走れ!」
「おお、今年の贄は割と活きがいいなあ」
村長がけらけらと笑う声がする。今となっては、この男が正気かどうかも分からなかった。
「何考えてるんだあんた……! 自分が何してんのか分かってんのか!」
「何って、贄を調達しとるだけだがな。ヤオバミ様は優しい神さんだが、無礼なことをした輩には容赦しないんでなあ。贄を一つ二つ捧げてやらんと、どうも鎮まらん」
浅海は必死に思考を回した。いつもなら贄だのなんだの、馬鹿みたいなことを信じて犯罪を犯すなと一蹴してやるところだが、自分はもう見てしまっている。
人間が蛇になるところを、見てしまっている。
あれが、贄とやらの末路だとしたら?
「くそっ……」
「おい、お前。男は絞め落として地下の座敷牢に入れとけ。女はヤオバミ様が母体として気に入るかもしれんからな……拘束だけして、身を清めとけ」
「はい、父さん」
瞬間、浅海の中で何かが燃え上がった。
今、犬神のことを、なんと?
彼女に、何をするって?
「ふざっ……けんな!」
腹筋に力を入れ、上に乗っている女ごと、はねとばす勢いで体を反転させた。急に反撃されると思わなかったのか、手の拘束が一瞬緩む。
その隙を突いて仰向けになり、さらに女の手を掴んで身を起こす。再び体をぐるんと反転させ、床に女を叩きつけて押し倒す。
「逃げろ、犬神!
「え、ええ!?」
「前々から勘だけは良かったろお前! 俺のことを見捨てるのが嫌なら、隙を見てお前が俺を助けろ! 警察を呼ぶでもなんでもいい!」
瞬間、彼女の気配が変わった。はっと息をのみ、そのままきゅっと唇を引き結ぶ。静かなまなざしが浅海と、組み伏せられた女を交互に見た。
村長が舌打ちをする。
「何しとる。あの女も早く捕まえんか」
「はい、父さん」
「行け、犬神!」
犬神はもう躊躇わなかった。踵を返し、戸を豪快に引き開けて外に飛び出す。
同時に、浅海の下にいた女が拳を固めたのが見えた。床に押し付けていたはずの腕を、床と平行に、下に向かって素早く引き抜いて拘束から逃れる。
「申し訳ありません。しばしお眠りを」
気づけば、浅海の顎の下から鋭いアッパーが繰り出されていた。衝撃と共にがづん! と音がして、目の奥にフラッシュにも似た火花が散る。
視界が一瞬がくんと揺れて、黒く染まった。
あ、ダメだ、と判断する暇もなかった。コードを引き抜かれた機械のように、浅海の意識がばつんと落ちる。
こうして、浅海蒼輔は捕まった。
ヤオバミ様の怒りを鎮める贄として。
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