豹変(1)
そう、思っていたはずなのだが。
「やっぱりこうなるのかよ……」
浅海は額に手を当て、喉の奥で低く呻いた。
「しっ、浅海先輩静かに……! お
「いや聞こえてねえよ、あの馬鹿騒ぎ能天気馬鹿野郎どもには」
「馬鹿って二回言いましたね今」
言いたくもなる。
浅海は犬神を引き連れて、夜の山に忍び込んでいた。身を低くして、生い茂る植物の中に身を隠す。山というのは大概の植物の背が高いもので、彼らには気づかれていないようだった。
目の前にはひとつのこじんまりとした
「うわ、神社マジであった! すご〜!」
「おいあんま騒ぐなって。誰か来たらどうすんだよ」
「来るわけないでしょ! 誰も来ないようにこんな朝早くから来てんだから! それよりちゃんと撮れてるんでしょうね」
「分かってるって。撮れてるからあんま叫ぶなよ。耳痛くなるって言ってんだろ」
「何よ。ねえみんな聞いた!? 炎上したのこいつのせいなのにこの開き直りぶり、どう思う? ヤバいよね?」
「悪かったって!」
女の方が懐中電灯を動かし、男の方が動画を撮っている。おそらく生配信をしているのだろう。ちかちかと光る画面には、いくつかのコメントが流れている。
「ほぼ朝だってのによくやるよ……」
「まあ、その日の一番最初に龍神様に祈った人だけが、幸運とか知恵を得られるって話らしいですからね……」
「龍神が眷属を作ったのは、一日に一人だけだった……だっけか? 村おこしのためとはいえ、そんなとこまで伝承に合わせて宣伝しなくてもいいと思うけどな……」
どうしてこんなことになっているのかというと、浅海は朝方、まだ日が昇っていないような時間帯に、犬神に叩き起こされたのだ。
『先輩、先輩! あの人たち、お社行くつもりですよ……!』
犬神は寝るのも早ければ起きるのも早い。どうやら隣の部屋の物音で起きてしまったらしく、しかも「社に朝一番に向かって加護を貰う」という話を聞いたのだという。
流石にそうなれば、無視をしてもいられない。
村長たちを叩き起こすのも忍びなく、仕方なしに二人だけで注意を促しに来たのだが……
「まあいいわよ。この配信バズったらこいつのこと許す約束してまーす! 寛大な美紀に感謝しなさいよね。普通、浮気現場うっかり配信して炎上なんて裁判もんだから」
「悪かったって……」
普通に話が重くて、割って入るのも躊躇われた。男のやらかしの程度がデカすぎる。もう別れたほうがいいのではないか。
首を傾げていると、犬神がかすかに苦く笑った。
「うーん、カップル配信とかやってると、別れると視聴者が半分くらい減っちゃうらしいですからね〜」
「生々しい話だな……つーか犬神、お前も配信とか見るのか?」
「私は全然知りませんけど、友達がよく見てますよ〜。三次元は浮気だの不倫だので炎上するから、やっぱりダメだとか、よく聞きます」
「重いな、どいつもこいつも……」
呆れていると、不意に女のほうが顎をそらして社のを示した。
「ちょっと、悠介。あそこ開けてよ。スマホ持っといてあげるから」
そこ、と言いながら、女は社の入口を指した。
社はこじんまりとしたもので、女性でも身をかがめないと入れないのでは、というほど扉が小さい。直方体を横に倒した形の建物の上に、屋根が被さっているような形だ。正面の中央に観音開きの扉があるが、その小ささからするに、おそらく中は相当狭い。通常の神社のように、祈祷ができそうな広さはないだろう。
しかしだからこそ、周囲の暗さも相まって神秘的な雰囲気があった。夜の山にぽつんとあるお社など、雰囲気の塊のようなものだ。
「は? いや、開けんのは流石にダメじゃね? 御神体とかあったら……つーかさっきお前、祈るだけって……」
「神様がいるんだったら顔見て挨拶しないと失礼でしょ! それとも何? まだ口答えすんの?」
ぎろりと睨まれ、男はうっと唸る。何秒か視線をさまよわせて逡巡したが、最終的にそっとため息をついた。
渋々というように彼女にスマホを渡し、社の入口に向き直る。まるで一生許されてはいけない罪人のような面持ちだった。
「おいおい……」
浅海はいよいよ看過できなくなった。最悪、社の手前で馬鹿騒ぎをするだけなら、配信後に動画を消してもらうだけで済むかと思ったのだが……
「ダメだ、止めてくる。犬神はここにいろ」
「え、ちょっ、先輩?」
「動くなよ!」
声をひそめて言い切ると、一気に草むらから飛び出す。社は当たり前のように閉ざされている。無理に開けるだけでも問題なのに、中のものを持ち去られでもしたら、確実に面倒なことになる!
「おい、お前ら、ちょっと待て……!」
だが、少しだけ遅かった。
意外と呆気なく、がこんと社の扉が開く。そして「ん?」と首を傾げる気配がした。
「なんだこれ……枯れた、木?」
「は、何? 見せなよ。あ、ホントだ。何? こんな枯れ、木……」
はしゃぎながら男の手元を覗き込んだ彼女は、急に「ひいっ!」という声を上げた。
「ゆ、悠介それっ、それ、ミイラ! 蛇のっ!」
「はっ……? うわっ!!」
男が、手の中のものを放り出した。宙を舞ったそれは社の入口付近にごとんと落ち――ぱきり、と、何かが割れるような音がした。
遠目にはよく見えない。だが確かに、人の腕ほどの長さをしたそれは、奇妙に湾曲しているような気がする。
「な、なんっ……なんでこんなもん、神社の中に!」
「し、知らないわよ! こんなんに祈るとこだったわけ!? 嫌だっ、ねえちょっともう行こ、悠介早くっ……悠介?」
そのとき不意に、何故か、浅海の背をぞわりとしたものが撫でた。
男が背を折り曲げてその場に立ち尽くしている。女が不可思議なものを見るように首を傾げた。浅海も訝しげに足を止める。
男は動かない。気持ち悪さに吐きそうなのかと勘ぐったとき、それは起きた。
ぼこっ、と、男の背中が、内側から殴られたように歪んだ。
ぎょっとした浅海の前で、男の体がぼこぼこぼこぼこっ! と異様なほど膨れ上がる。一拍おいて、女の絶叫が森に響いた。
「きゃ、あああああああああっ!?」
「あっ、ぅ、へぁ……」
「ゆ、悠介っ、悠介っ!?」
背中が肥大し、代わりのように手足がすさまじい勢いで縮んでいく。数秒も経たないうちに、ほとんど肩に手首から先がくっついているだけのような有様になった。
同時に男がばたりと倒れ込む。どうやら足が上手く踏ん張れないらしい。じたばたともがく下半身をよく見ると、両足がひとつにくっつき、足の先は筆のような造形になってしまっていた。
背中側から服が裂け、見えた肌は波打つように光っている。まるで、陽の光を浴びたウロコのような……
「ぁお、ぅ?」
後ろ姿しか見えないが、男の頭からばさばさと髪が抜け落ちるのが見えた。浅海は本能的に一歩後ずさる。
何か、とんでもないことが起きている。
「ねえ!」
急にそばで大声が響いてぎょっとする。見れば、配信をしていたはずの女が浅海の腰にすがりついていた。
「たっ、助けて! お腹がおかしい!」
「はっ?」
「見て!」
スマホも何もかもを投げ出して、女が腹を見せる。浅海は絶叫を飲みこんだ。
女の腹部は、まるで臨月の女性のように脹れあがっていた。それだけじゃない。何かがぼこぼこと動いている音がする。
「ねえ、助けて! さっき急にこんなんなって……なんかが中にいるんだよおっ!」
「ちょっ、おい、やめ……!」
青ざめ、手を振り払おうとしたときだった。
女の手首が、すぱんっと手刀で叩き落とされた。
見れば、犬神が隣に立っている。表情の一切が抜け落ち、刃物のようなまなざしで女を見ている。
一瞬、ぽかんとした女に向かって、一言。
「触らないでください」
氷のような冷たさを帯びた声だった。彼女がそんな声を出すとは信じられず、何度か瞬く。
刹那、腕がぐいと引かれた。
「逃げますよ、先輩! 走ってください!」
「うわっ……! おい、急に走るな!」
だが、咄嗟に足は動いた。育ちの良さがなせる技なのか、彼女の真剣な叫び声には、思わず従ってしまう響きがある。
一度動けてしまえば後はどうにでもなった。白み始めた空の下で、犬神に手を引かれて一気に山を駆け降りる。
時折、犬神が道を間違えそうになるのを正しながら走って、走って、走り抜けた。民宿が見えた瞬間、浅海はぐんとスピードを早める。犬神を押し込むようにして中に入れ、次いで自分も転がり込んだ。
引き戸をぴしゃりと閉め、何も言わずに二人で扉を押さえつける。
息すら止めて数拍。
女が追ってくる足音はしなかった。
はああああ、と二人で息を吐く。
「い、犬神、見たか?」
「見ました……ばっちり……夢に出そう……」
ならば、やはりあれは幻ではなかったのだ。
胸の内にうすら寒いものが広がっていく。浅海はどうにか言葉を絞り出した。
「あれ……蛇、だったよな」
「蛇、でしたねえ……」
さっき、男の体がえげつない変化をした先にあったのは、蛇だった。背中をびっしりと覆うなめらかなうろこと、先に行くに従って細くなっていく尾。毛が一切ない体と頭。
あれは、蛇だった。
「一体、何が……」
「おお、学生さん、そんなところでどうした」
はっと二人で顔を上げた先、村長が廊下の先に立っていた。
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