一か月という時間は案外あっという間に過ぎていく。時間間隔が鈍くなるような生活を僕が送っていることも関係してるだろうが、僕はいつもの待ち合わせ場所に来ていた。

 ただ違うの時間。今日は火曜日でなく、日曜日だし、時刻も朝だ。これは彼女の指定だった。……正直なところ彼女の申し出に何故僕が付き合っているのかは、僕でも分からない。悪いと思っているなら素直に離れるのが彼女のためだ。……どちらにしろ勝手なのは僕の方だし、来てしまった以上今更な話だが。


「……久しぶりです。智之さん」


 声をかけられ振り向いて、彼女の姿を目に入れて驚いた。彼女は制服じゃなかった。僕が彼女に買った服、ワンピースにカーディガンを合わせ、靴もヒールを履いている。ラフでありながらオシャレで、ブランド物の手提げ鞄で彩った彼女は、驚くほど美しかった。

 ……元々の素質もあったと思うが、この一か月で化粧や髪のアレンジ、魅せ方を勉強してきたのだろう。僕も過去に似たようなことをしたので、その努力が分かる。

 一月前の言葉はどうにも本気らしい。


「待ちましたか?」

「……いや、今来たところだよ」


 僕の言葉に彼女はクスリと笑う。


「どうしたの?」

「……いえ、何だかこういうやり取りしたことが無かったので新鮮で。いつもはすぐに場所を移してましたから」

「……人が多いところは苦手なんだ。我慢が効かなくなる」


 周りに歩く人々は僕からしたら正しくない人ばかりだ。今の僕はそれを傲慢で間違いと気付いているけれど、長年染みついた習慣はどうしても抜けきらない。


「……そんなんで大丈夫ですか? 今日はほとんど外歩きですよ?」

「ま、頑張るよ。今日は君に付き合うそういうルールだからね」

「はい! 頑張ってください! ……でも、どうしてもって言うなら私にだけは我慢しなくいいですよ」


 僕は彼女の言葉に目を細める。その言葉の意味が分からない彼女ではあるまい。確かに、この一か月で彼女は随分と正常な精神状態に近いところまで回復しているようだが、あくまでそれは僕に会わなかったからだ。

 今日のデートは僕が小雪さんと会っていた時にしたような、僕に対する制限がない。僕の我慢が出来なくなれば彼女は前以上に悪化する可能性の方が高い。


「私はもうこの一か月で智之さんから脱却したんです。もう学校にも通ってますしね。今日はあくまでも私のプライドを回復させるのが目的ですから! だから智之さんが何をしようとしても私には効かないので安心してください!」

「……そうかい。期待しているよ」

「はい!」


 笑顔で返事をした彼女は僕の手を取って歩き出した。……随分と遠慮がない。彼女がどうやって僕を惚れさせる気なのか、お手並み拝見と行こう。


「うわあ! 凄いですね!」


 彼女が最初に僕を連れて来たのは科学博物館。その特別展示。今は虫の展示をしていた。入るのに四千円近く取られかなり高額だったので、僕が出そうと思ったのだが、彼女に断られた。

 曰く、バイトもしてこの日のために稼いだそうだ。僕の金銭が親のものであることも言い当てられてしまっては僕も反論の余地はない。随分と前から、僕がまともに働いてない事には気づいていたそうだ。


「雪ちゃんは虫が好きなの?」

「いえ、全然。ただ父がこういうところが好きで、小さい頃はよく連れてってくれました」

「そっか」

「智之さんは虫がお嫌いですか?」

「……昔は好きだったよ」


 虫は本能に忠実でその動きも機械的で、自然界として生きる上での正しさを追い求めた形をしている。実に合理的な生き物だ。生きるために他者を犠牲にするその在り方は、僕に似ていた。こんなことは弱肉強食の自然界では当たり前のことで、自然の摂理として酷く当然のことなのだが、その正しさを今の僕は普通の人のように少し苦手だった。苦手といいながら僕は決して辞めることが出来ないのだが。


「私からしたら他の人も似たようなものだと思いますけど、自分のために生きてない人なんてこの世に存在しないと思いますし」

「……それはその通りなんだけどね。ただ普通の人には誰かに対して情があるだろう? 感情があって情があるから人はよく非合理な判断をする。結果的にそれは弱さに繋がる。人間が巨大な社会性を持っているのに、地球全体を支配できていないのはこれが原因だと僕は思ってる。……その非合理さがあるから社会を構築出来たという人もいるけれど、それは僕からしたら間違いで、その非合理さのせいで社会の先に進めていない」


 人類の過ちにして欠点。それが弱さを捨てきれないこと。弱さを罪だと認識しているにも関わらず、人は弱さを愛しすぎている。僕はその矛盾に耐えられない。

 弱さを捨てて弱さを排し、その先に残る純粋な強さ。それを多くの人はどうしても醜いと感じてしまうらしい。……きっとそれは自分の弱さから来る防衛本能なのだけれど、人間はそれを受け入れられない。


「……でも智之さんは智之さんが嫌っているその弱さと同じ暮らしを今している」

「……ああ、その通りだね」


 母が死んだ日。母が母を殺した日から、僕は強さを拒絶し、弱さを受け入れるそいう暮らしをしている。他者に甘え、他者に依存し、他者の助けなしでは生きられない。そういう暮らし。

 ……僕が僕の生来の性分を貫くなら、母が死んだことすらそれを母の弱さと受け入れ、迷いなく、自信の行いをぶらすことなく、強くあり続けるべきだったんだろう。だが、僕は母を弱さとして切り捨てるという僕の意思に、どうしても従う事が出来なかった。僕は僕の強さに負けた。


「……智之さんはどうしてそんなに弱さが嫌いなんですか?」

「……こればかりは理由はないかな。多分そういう性分なんだ」


 何度か考えたことはある。だが結局明確な答えを見つけることは出来なかった。嫌いなものは嫌い。……思えばこの考え方は合理的ではない。僕の人間らしさと言えるだろうか。


「ちゃんと答えが出るまで向き合った方がいいですよ」

「……まるで似たことを経験したみたいに言うんだね」

「はい、経験しましたから。私この一か月でお父さんにも会いに行きました」


 ……凄いな。素直にそう思った。この一か月で彼女が何をして来るのか興味はあったけど、学校に行き、バイトをして、父親に会う。おそらく彼女はこの一月で自分のやるべきこと全てをやって来たのだろう。


「私、お父さんのこと嫌いだと思ってました。私が酷い目に遭うのも、お母さんが少し乱暴になったのもお父さんが捕まったせいだと思ってましたから。私が過去に経験したこと、その理由に関してお父さんは都合が良かったんです。……でも久しぶりに会いに行くと、お父さん事件の事聞いてたみたいで、凄く私の心配をしてて、犯人を俺が殺してやる!って叫んでました。馬鹿ですよね。自分がどうして捕まったのかも忘れてるのか……でもそういう私達家族には純粋で真っ直ぐなところが私好きだったんです。会ってみたら全然お父さんのこと嫌いじゃなくて驚いちゃいました」


 クスクスと笑いながら話す彼女。雪さんの過去は決してその程度で流せるものではないだろうに。もしかしたら少しだけ僕の影響があるのかもしれない。過去なんてどうでも良く、ただ目の前だけを見たくなる、僕と接する人はそういう風になっていく。……いやこの考えは傲慢だ。僕と会っていなかった以上彼女は本当に自分の力で過去を乗り越えたのだ。そんな雪さんが少し羨ましかった。


「もしかしたら智之さんも本当は嫌いじゃないのかも知れませんよ。現にそういう暮らしをしてる訳ですし」

「……僕が弱さを嫌っていないと?」


 まさかそんなはずがない。僕は誰よりも弱さを忌避している。


「……そう思うならそれでも構いません。でも今の私からすれば、智之さんは誰かに在り方を否定して欲しがってるように思えます。……私が落ちるところまで落ちたかったように」

「否定、か……」


 確かにそれはそうかも知れない。僕は生まれてこの方、誰かに否定されたことがない。僕のやること、成すこと、その全てを結局最後は全ての人が納得し受け入れる。誰であろうとそれは変わらない。

 母が死んでから、僕は自分のことを父にだけ話したことがある。僕がしたこと、僕がやっていたことを父に話して、彼は僕を責めなかった。冗談のように受け止め笑い、ただ僕に責任はないとそう言った。大学を辞めて東京に意味もなく行くことも父は許容した。……それは僕からしたら絶望的なことだったのだろうか。


「……残念ながら私はそれをしてあげるつもりはありませんけどね」

「いいのかい? それは君の秘策のように思えるけど」

「私は今日、一緒に落ちぶれるために来た訳じゃありませんから。それじゃあ次行きますよ!」


 彼女は再び僕の手を取るとまた急ぎ足で歩き出した。


「あんまり変わってないですね!」


 次に彼女が僕を連れて来たのは千葉県の公園だった。特に有名という訳でもなく、どの県にも一つはありそうな大きめの公園。


「ここは?」

「私が彼氏と密やかに密会をしていた場所です。あんまり有名な場所だとバレちゃいそうですけど、かといってムードは欲しかったので、よくここで会ってました」


 雪さんの彼氏。最終的に雪さんを裏切ったという男の子か。と言っても彼からすれば担任と淫行を重ねていた彼女の方が、裏切り者に思えたことだろう。……雪さんが彼に理由を話したかどうかまでは分からないが。


「……思い出の場所を僕なんかで汚していいのかい?」


 彼女の連れてくる場所と意図。それはおそらく彼女にとって楽しかった思い出の地なのだろう。父との思い出、彼氏との思い出……とくれば最後はあの場所だろう。


「……別に私は汚してるつもりはありませんよ。ただ智之さんに告白して貰うには私のことを知ってもらう必要があると思っただけです」


 僕が知らない彼女。それは彼女が話した辛い過去ではなく、彼女の経験した楽しい思い出のことだろう。


「私の元彼氏、名前を冬君って言うんですけど、名前に反してかなり情熱的な人で、学校での接触も彼からでした。私のお父さんの事は中学が地元だったので、そこそこ広まってたんですけど、秋君はそれを知った上で庇ってくれて、当時の私はイチコロでしたね」

「……随分言葉のセンスが古いね」

「実はこれも秋君から知った言葉なんですよね。彼、昭和のテレビとか好きだったんで。……バレる事がなかったらきっと今でも彼の事好きだったと思います」

「……そういえばどうしてバレたんだい? ただ学校で接触している程度ならそこまで深刻に捉えられそうにないものだけど」

「……実は演劇で冬君がロミオをやることになりまして、その練習に付き合ってる時に盛り上がって、キスしちゃったんですよね」


 ……なるほど。それは確かに一発アウトだ。前から思っていたけれど、本当に雪さんは大胆な人だ。思い切りがいいと言うべきか。


「……智之さんは彼女いた事ないんですか?」

「……いるにはいたよ。といっても好きで作ったと言うよりは、その方が都合が良かったからだけどね。その内それよりもいい方法を見つけたから辞めた」

「……ちなみにそれはどういう方法ですか?」

「全員共通の浮気相手」

「なるほど。それは確かにいいポジションですね」


 僕の返事にクスクスとよく笑う雪さん。今日はほんとによく笑う。いつも笑っていない訳ではなかったけど、時が流れるのをただ一緒に待つ。そういう事の方が多かった。


「……智之さんは人を好きになれないんですか?」

「……好きになれないというよりも、僕より好きな人間がいないって方が正しいのかな。僕は正しく強い人が好きだから、僕より正しくて強い人が現れたら、きっとその人を好きになると思う」

「……要するに凄いナルシストですね」

「……ま、それでいいよ」


 本音を言えば反論したくはあったけど、雪さんが楽しそうに笑っているので、それでいいと思った。今日という日は彼女のためにある。


「……そろそろご飯を食べましょうか」

「……確かにもう昼時だね」


 時間は一時を回っている。ご飯としては少し遅いだろうか。


「……それを食べたら次で最後です。今のところは楽しめていますか?」

「そこそこね。一人で歩くよりは大分ましだよ」

「……なら良かったです」


 「行きましょう!」彼女はそう言ってまた僕の手を取った。僕の予想が正しければ、きっと最後はカラオケだろう。彼女にとって楽しい思い出、それは彼女の過去の経験から推測するなら最後は僕のはずだ。そしてそれが彼女と僕の最後の場所だろう。


「ここが最後の場所です」

「…………」


 僕の予想に反して雪さんが最後に訪れたのはホテルだった。ただのホテルではない。ラブホテルだ。それもそこそこいいところ。


「……えっとね。雪ちゃん。僕は君とそういうことをする気はないよ」

「智之さん何か勘違いしてませんか? 私は同じように楽しかった思い出の場所に連れてきてるだけですよ。……もしかして最後はカラオケだと思ってました?」


 言い当てられ思わず心臓が跳ねる。


「……なんていうか。やっぱり智之さんって自信過剰気味ですよね。ま、能力があるから仕方ないのかも知れませんけど」

「……悪かったね」

「それに確かに智之さんとの日々は楽しかったですけど、それを私を知ってもらうために使うわけないじゃないですか。意味がないですし」

「悪かったって、はやく行こう」

「……もしかしてちょっと拗ねてます?」


 ……別に拗ねてはいない。だが確かに思考が短絡的過ぎたとは思う。最近頭を使う事も避けていたから仕方がない。雪さんはそんな僕をまた可笑しそうに笑って、ついてくる。

 ……だがもし本当にここが雪さんの楽しかった場所なら、相手は誰なのか。雪さんの過去の話の中でホテルを利用する相手、父親はありえないし、リスクのある彼氏もない。そもそも二回も同じ相手の思い出の場所に連れてくるとは思えない。

 となると相手はただ一人。


 僕らはホテルに入って部屋の鍵を閉める。……よく歩いて汗もかいていたのでお互いシャワーを浴びることになった。雪さんが先に、そして次に僕が。

 シャワーを浴びてバスローブを纏って外に出ると、彼女も同じくバスローブ姿で薄く化粧をし直して待っていた。

 彼女の座るベッドの隣に僕は腰を下ろす。


「……ここは先生が機嫌のいい時にだけ連れてきてくれた場所でした。先生普段はガサツで乱暴で、自分勝手な人だったんですけど、ここでの時は私にとても優しくしてくれたんです。たまにお小遣いとかもくれて。……変な話ですよね。先生は私をどうしようもなく追い詰めた人なのに、私はここでの先生はそう嫌いじゃありませんでした。……こういうのストックホルム症候群とか言うんですかね。でも本当に嫌いじゃなかったんです」


 ……やはりそうか。彼女が雪さんがホテルを利用するような相手、それは彼女を弄び続けた張本人しかありえない。雪さんは何時でも呼び出されたと言っていた。そこが学校だけとは言っていない。


「私って結構ちょろい女なんですよね。優しくされるとすぐに誰にでもなびきそうになる。……私と先生を冬君が見つけた時もきっとそういうのを感じ取られたんだと、今考えると思います。……だからといって冬君のしたこと許せる訳じゃないですけど……今ならまあお互い様かなぐらいには思えます」


 彼女はそう閉めてから僕に向き直る。真っ直ぐと僕の瞳を見てくる。


「……では今から智之さんが私に告白したくなる魔法の言葉を言います」

「……そんなのがあるのかい」

「はい。勉強しましたから」


 彼女はにっこりと笑った。……正直、彼女に少しも惹かれていないといえば嘘になる。しかし、それは会って数日もした時から感じていたことだ。それが今日でより強まったという事実も間違ってはいない。……かといって僕は彼女を手放したくないとか、付き合いたいという感情は存在しない。……僕は彼女を雪さんを好きになっていない。……そもそも僕はきっと人を好きになったことなんてないのだろう。

 こうして彼女に付き合っているのも、その大部分は好意というよりは興味からだ。普通の人にはない強さをもつ彼女が何をして来るのか、それに対する強い関心だ。彼女では僕を恋に落とすことは出来ないだろう。


「……それじゃあ、その魔法を聞かせてくれるかな」

「はい。……実は私、先週告白されました。クラスで一番のイケメン君です。私ってやっぱり結構可愛いですから、当然と言えば当然です。やっぱり可笑しいのは智之さんみたいで安心しました」

「……それで、受けたのかい」

「……安心してください。まだ返事を待って貰ってます。今日の結果次第で、彼にはOKを出すつもりです。そういう約束をしました。……実は私色々とあった身の上ですけど、その中でも唯一誇れることがあるんです。私、約束を破ったことがないんです」


 彼女は心底誇らしそうにそう言う。一途で、意思が強い彼女ならそうでも不思議ではない。正直まだ彼女の魔法の全容が分からないが、僕は黙って話を聞く。


「さて、そんなモテモテで義理堅く、まだこれからどんどん可愛くなる予定の私を、自分だけの物にするチャンスが、今智之さんの前にあります」

「……もしかしてそのセールストークが魔法だなんて言わないよね?」

「最後まで聞いてください! 私は智之さんに告白するチャンスを上げます。といっても、きっと智之さんは言葉にするのが恥ずかしいと思うので、返事は行動で示してください。……付き合いたいなら、いつものように私を抱きしめて、それ以外なら……何をしても構いません」

「……それで終わりかい?」


 僕は黙る彼女にそう問いかける。彼女は僕の瞳を強くみたままで、これ以上何があるとも思えない。だが彼女はゆっくりと目を閉じていく。……そして最後に口を開いた。


「……智之さん私は約束を守ります」


 その言葉でようやく僕は理解した。僕はてっきり彼女が今日で僕を惚れさせるために奔走していると考えていた。彼女の思い出の地に行き、それを語る事で、僕に彼女のことをもっと意識させるつもりなのだとそう思っていた。

 だが、それは違う。……彼女に初めから僕を惚れさせるつもりはない。彼女のした約束は僕にそして彼女がそれをことつまり彼女は初めから、僕に対して諦めて欲しいなら告白しろとそう言っていたのだ。

 ……そしてそうなると、彼女が僕を思い出の場所に連れて行った意味も変わってくる。……彼女は過去を全て僕に話した。悲しい過去も、楽しかった過去も、人生の全てを僕に話したと言ってもいい。……過去の出来事を恥部を含めて全てを話すと言うその覚悟と意味は。

 ……彼女は僕の呪縛から逃れてなどいなかったのだろう。むしろそれでもなお、縛ってもいいとそういう彼女の意思表明。それほどの強い覚悟。……金子 雪という少女はやはり度が過ぎるほど一途なのだろう。

 だがその態度は僕にとって逆効果だった。


 僕はこれまでで一番優しく、強く、彼女にハグをした。彼女の肩が跳ねる。酷く不安定な動悸に、乱れる呼吸。


「……やっぱり私じゃ駄目ですか」


 酷く震えた彼女の声が僕の耳に響いた。彼女の身体が酷く熱を持ち、僕の肩に雫が垂れる。


「金子 雪さん。貴方のことが好きです。僕と付き合ってください」

「っ…………」


 僕の背に彼女の手が回され、力強く掴まれるのを感じた。肩に湿気がましていき、彼女の嗚咽が部屋に響き渡る。……ああ、僕は最低な人間だ。最低で、クズで、どうしようもなく救いがない。きっと今すぐにでも死ぬべきなんだろう。……だがそれは出来ない。これ以上家族を悲しませることは出来ない。本当に僕は自分勝手な人間だ。

 だから、目の前の腕の中に居る少女が、ただ健やかに誰にも縛られない存在であって欲しいと思うのも僕のエゴだ。

 ……僕は彼女の次の言葉を静かに待った。


「……ごめんなさい。私には、私の事が好きな人が居ます。……だから貴方とは付き合えません」


 本当はこんなにハッキリと彼女は言葉発していなかったけど、ただ雪さんが僕に何を言いたいのか。それは伝わった。


「……そうかい残念だよ」


 それは心からの言葉だったろうか。僕には分からなかった。

 




 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る