第四話 白 霞、望まぬお見合いに連れ出される事。

 離婚したハク が思ったことは、


(実家で茶肆ちゃしの仕事を手伝い、しばらくゆっくり過ごしたい。今は何も考えたくない。)


 という事だった。

 離婚して、心は楽になった。

 と、同時に、今までの生活で、自分がどんなに傷つき、追いつめられていたのか、やっと実感した。


 実家に帰ったハク は、まだ セイに殴られた頬のアザが治りきっていなかった。

 でもそれ以上に、中身のほうがボロボロに傷ついていたのである。


 七十歳の父親、ハク ヨウ、三十二歳の兄、ハク ケンは、


「おお、我が娘よ、可哀想に。」

「辛い目にあわされて。もう李家のことは忘れなさい。」


 手を握ろうと、手をだしてきてくれたが、霞の両手に包帯が巻かれてるのを見て、いたましい、という顔をして、肩を叩いてくれた。

 だが、五十歳の母、ハン は違った。


「離婚するなんて……、子を産めずに返されてくるなんて、恥ですよ。」

「お母様!」


(離婚する女なんて、今は普通なのに。ごまんといるのに。お母さまの考えかたは、いつも古くて、ガチガチに固まってるわ。どうしてなの……。)


「まあ、、ワシのナーディア、そう言ってやるな。」


 黒髪黒目、いかにも唐人らしい、といった風貌の父親は、母親を優しくなだめた。


 ちなみに、ここにいる者は、皆、黒髪だが、目が黒いのは父親だけだ。

 母親も、兄も、霞も、黒髪、蒼玉ラズワードの目をしている。

 母親はいかにも胡人こじん、という彫りが深い顔だ。

 そして、この家で一番わがままなのも、母親だった。


 唐の妓楼で舞い踊る、康国サマルカンド出身の胡姫こき(舞姫)であった母親は、飛び抜けた美女で、父親が惚れて、数十万文の大金を払って買い上げ、妻にした。


 ある者は、私賤民しせんみん客女きゃくじょ(平民が所有する奴隷のうち、上級奴隷)である胡姫こきを妻にするなんて、と嘲笑し、ある者は、賤民せんみん良民りょうみんとして解放する事は、福山ふくざんの高い頂きにも匹敵する───つまり功徳くどくに満ちた───善行であると褒め称えたそうだ。


 二十歳差の若い妻に、父親は甘かった。

 母は、全然、財産を持っていない。普通なら威張れないところだが、母は、わがままだった。持って生まれた性格なのだろう。

 母に困ると、父親は決まって、ハン の故郷、康国サマルカンドでの名前、ナーディアを愛称として呼んで、なだめるのだった。

 生まれた息子も娘も父親に似て穏やかな性格で、ハン のわがままを阻む者は、この家にいなかった。


「お母様。せめてこれからは、茶肆ちゃしの仕事を精一杯いたしますわ……。七出しちしゅつに触れ、帰ってきた娘をお許しください。」


 この母親には、下手したてに出るのが吉なのだ。

 つんっ、とハン は顔をそらした。


「表の茶肆には立たないでちょうだい。お客の目に触れないように、奥処おくかの庭で、お茶の選別をなさい。いやぁよ。出戻り娘がいる茶肆って噂になるのは。」


(今は、離婚する男女はごまんといる。多少噂になっても、出戻り娘と、おおきく後ろ指さされるような、そこまでの恥ではない。

 顔を隠して暮らさねばならないようなことはない───。)


 腹の底で、黒いものがうねるように、悔しさがこみ上げる。


(あたしがどんなに酷い目にあって、十五年耐えてきたか、わかってくれようともしない。)


 白 霞は唇を噛む。


(どうしてこんなに冷たいの、お母様。十五歳で嫁ぐ前は、こんなに冷たくはなかった。お母様はワガママでも、仲良く温かい家族のはずだった。

 離婚したからか。

 離婚した出戻り娘というのは、こんなにも、何もかも境遇を変えてしまうものなのか。)


 腹に渦巻いていた悔しさが、ふっ、と冷えた。

 白 霞は冷静になった。


(そうだ。あたしは三十歳。もう大人で、阿姨アイ(おばさん)だ。ここで鬱憤をぶちまけて、なんになるだろう。年相応に、大人になれ、霞。あたしは離婚した出戻り女なのだ。)


 霞はこの現実を、むなしく受け入れた。


「……はい。お母さま。」




    *   *   *




 白 霞は、実家の自室で、銅鏡を見る。鏡面は綺麗に磨かれ、顔の細かいところまで、よく映し出す。


 白 霞は雑胡ざっこ、肌の色は、胡人(コーカソイド、白人人種)ほど白くないものの、唐人に比べたら、抜けるように白い。

 目の色は、胡人のなかでも珍しいほど、明るく濃い青色で、蒼玉ラズワード(ラピスラズリ)のようだ。

 目の色は若い頃と変わらない。

 でも、顔の印象は変わった。

 まだ目の下に皺はないものの、目尻は下がり、顔の輪郭も垂れ、肌のハリも失われた。


 三十歳。


 老けたのだ。


 この年になると、若々しさは飛ぶように逃げていき、女の顔は変わってしまう。十五歳、結婚する前は、あれほどひっきりなしに、男たちが霞をほめそやしたが、その美貌は、もはや跡形あとかたもない。


 阿姨アイ(おばさん)になったのだ。


(自分では、中身は若い頃と変わらないように思うのに、年月というのは残酷ね。)


 白 霞が失った十五年は、長すぎた。

 あまりにも。


「霞? いるの?」


 母が来た。小太りの、五十歳くらいの女が後ろにいる。誰だろう?


「はい、お母さま。」

「顔のアザはなおったわね。こちら、ショウ夫人よ。霞、あなたの新しい夫を探してくださる方よ。」

「えっ?」

「安心してね───ぇ。アタークシが良い方を紹介してあげるザマス。ええ本当、良い方っ! 良い方ザマス。」

「ま、待ってください。」


(この人語尾にクセがありすぎる。)


「あたし、もう結婚する気なんて……。」


 母と、そのショウ夫人は、やっぱり、というように目配せしあった。


「ほーらね、ハン夫人、アタークシの言った通りザマス。このまま放っておくと、実家が金持ちなのを良いことに、いつまでも家に寄生し続け、親に金をせびり、兄に金をせびり、兄の子が成人したら、その子に金をせびるお荷物女ザマス。不名誉ザマス。不名誉ザマースッ!

 ここが道の分かれ道ザマス。今のうちに再婚するのが吉ザマス!」

「そんな、金をせびったりしません。ただ慎ましく暮らしたいだけです。」


 幸い、ハク の家は、茶肆ちゃしとして成功している。財産はたんまりと余裕があった。

 が一人、実家で慎ましく暮らすのに、何の問題もなかった。


「慎ましく暮らすのなら、新しい夫のもとで暮らすのが良いザマス。」

「嫌です。」

「んま〜ぁ、そうおっしゃらないで。三十歳と聞きましたが、美しい娘さんザマス。これならお見合い、うまくいきますよ! 安心するザマス。

 実はね、もう、今夜、酒肆しゅしを予約しているんですよ。

 お相手は、あなたを知ってて、ぜひ、お見合いしたいって言ってくださってるザマス。なんて幸運でしょう! ザマス!」

「そんな勝手な! 嫌よ!」

「ほほ……。」


 ザマス女が残忍さを帯びて笑った。


「お美しい娘さんだから、まだご存じないのね、ご自分の価値を。

 ご自分が十五歳の、結婚にふさわしい年齢の女のままだと、勘違いしてらっしゃいません?」


 女は、早くて十三歳から結婚しはじめ、十八歳までに結婚しおわる。

 十五歳で結婚する女が多い。

 それが現実だ。

 霞も、十五歳で結婚した。


「あなた、十五歳の女の隣に立たされたら、男から見て、どんなに見劣りするか考えたことがあるのかしら?

 それだけの美貌ですから、十五歳の頃は、さぞかし、男を選り取り見取りだったでしょうねぇ。わかりますよ。

 でもね、今では、男たちは、みーんな、見向きもしないですよ。

 みーんな、隣に立った若い女を良いなと思って、選んでいくんですよ。

 男とはそれだけ、若い女が好きなのです。

 よーく鏡を見て、男から三十歳の女がどう見えるか考えて、謙虚になるザマス。」

「…………。」


 今のはこたえた。

 ついさっき、鏡を見て、自分の容貌の衰えを自覚したばかりだった。

 黙っていた母が、口を開いた。


「我慢しなさい。もう若くないんだから。自分の価値を知りなさい。

 今夜、酒肆に行きますよ。良く着飾りなさい。」

「………はい、お母様。」


 再婚なんて嫌だ、怖気おぞけがする、もう結婚に露ほども夢は見られない。嫌だ、嫌だ───。

 そう思うのに、霞は年齢を突き付けられる言葉の数々に打ちのめされて、悲しくうなだれながら、そう返事をしたのだった。




    *   *   *




 その日の夕刻。

 池のある中庭が敷地内にある、立派な酒肆で。

 遠くどこからか管弦の調べが聞こえる、区切られた部屋で。


 ザマス女に、


門当戸対もんとうこたい(家柄が釣り合う)のお相手ザマス!」


 と紹介されたお見合い相手は、五十五歳、霞より二十五歳も年上で、ぶよぶよと太り、痘痕あばたづら(潰れたニキビあと)、テカテカ脂で光る額で、にちゃあ、と笑うとヒキガエルにそっくりであった。

 むーん、と、なにか鼻をつまみたくなる悪臭がその男からは漂っていた。


(ひぃっ。)


 霞は卒倒しそうになった。


(再婚したら、この男に抱かれるの? 嫌、絶対嫌。)


 裸の自分がこの男の腕のなかにいるなど、想像さえも嫌だ。

 霞はぶるぶると震え、母を見た。

 母は、相手の醜さに顔をしかめながらも、霞を威圧するように見た。

 その目は、


 ───我慢しなさい。もう若くないんだから。自分の価値を知りなさい。


 と言っていた。


「お会いしたかったですよ、ボクのこと覚えてます? 若い頃はあなた目当てに茶肆ちゃし木蘭もくらんに通ったなぁ。でもあなたは全然振り向いてくれなくって、他の男にとられた時は悔しかったものです。今やっと───。」


 多分、その頃はこんなに太ってなかったのだ。霞はこの男を、うっすらとしか思い出せなかった。


 ペラペラ喋る男は、


「ん?」


 と急に黙った。


「はあ……、茶肆ちゃし木蘭もくらんしょう蒼玉ラズワードも老けたなぁ。昔はあんなに可愛くて美人だったのに、阿姨アイ(おばさん)になっちゃった。あーあ……。会わなければ良かったな。がっかりだ。ごめん、やっぱりこの話、ナシで。妻に娶る話は、ナシナシ。」


 男は失望したように頭を振った。

 その場が凍りついたように、霞も、母も、ザマス女も、向こうの母親も黙った。



 なんてことはない。

 相手の容貌を品定めしていたのは、自分だけではない。

 相手だって、霞の容貌を品定めし、失望したのだ。


「うっ……。」


 こんなヒキガエル男にすら、自分は結婚を遠慮される。これが現実だ。


「うぅっ!」


 霞は嗚咽を漏らす口を手でおさえ、絶望に涙をこぼしながら、その部屋から走って逃げだした。


 涙が止まらない。霞は滅茶苦茶に走り、酒肆の中庭にでた。

 遠く、管弦の調べ、時々、どっ、と盛り上がる酔客の声がする。

 空は日が沈んだばかり。泣きじゃくる霞には、優しい月明かりに照らされる事さえいとわしい。

 蝋燭の灯りが届かない木陰の暗さが、今の霞にはありがたい。


(もう嫌。もう嫌……。そんなに悪いことなの、三十歳になることが。そんなにいけなかったの、離婚したことが。 セイに殴られても、いくら浮気されても、耐えているべきだったの。あの生活を続けているべきだったの?

 いいえ、嫌よ。あの生活に戻るのは嫌……。)


「う……、ひっく……。」


 霞は木陰で自らを抱きしめ、静かに泣いた。涙が止まらない。


「あっ……。」


 男の驚いた声が後ろからして、振り向く。

 いつの間にか、近くに男が来ていた。

 背が高い、若い男。

 といっても、二十五歳すぎだろう。

 月明かりに照らされて、肌は白く、目鼻立ちの整った清雅なる美男が、切れ長の目を驚きに見開いている。


『大川サマー。ドコニイルンデスカー?』


 少し離れたところから、意味の通じぬ異国の言葉が聞こえた。












↓挿絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093090801388786

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る