[第六十三話][そしてまた始まりを告げる激闘の一日]

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[第六十三話][そしてまた始まりを告げる激闘の一日]

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<2024年4月8日>→1時18分→/場所 グロウブ闘技場/


「有名だから知っているだろうがこの俺の自己紹介をさせてもらう

俺の名前は「吉良 守」十歳の小学五年生で男の中の男、誕生日は4月30日

身長は175cmぐらいで体重は剣道を幼い時からやっているから重いと思う

服装は白の胴着で髪型は普通で髪は少し短めかな?趣味は鍛錬で特技は謎だ

最近までは走力は100mを0.064秒で時速5625kmぐらいだったと

思うけれど最近色んなことを経験して速くなったと感覚的にかなり思うから

マッハ6以上ぐらいにはなったんじゃ無いかなとは思っているが真偽は不明だ

強さはこの歳では圧倒的に最強で大人の中でも上の下の強さぐらいだと思う

そして憧れの人は人類最強と謳われる桐生 翼で目標は秘密だ、よろしく」


「有名だから知っているだろうがこの自分の自己紹介をさせてもらう

自分の名前は「舞城 王太郎」五十五歳の無職で男、誕生日は12月29日

身長は195cmぐらいで体重は多分150kgぐらいで御幣の達人で

服装は緑色の巫女服に大きな白のリボンで髪型は束髪崩しの少し長め

趣味は神社巡り特技は神社クイズで走力はマッハ6〜7ぐらいであり

強さは上の下ぐらいで憧れの人は正直に言って余りにも多くの同率一位がいて

誰を上げればいいのかはわからないが今回は本当にイカレタ博士

佩刀 旧極を上げておくそして目標は今現在は特にありはしない、よろしく」


「「よろしくです」」


「それじゃあ早速始めるとしましょうか」


「始めるとするか」


「「それじゃあ二回目の戦いの始まりだ!」」


「何だそれは!」「[吉良流二の形] 月飛ばし」


「これはただの陰陽玉ですよ」「神楽巫女」


そうして王太郎が御幣を振るとそこには風で出来た

陰陽の玉のような何かが数百個出来てそれが全て守を襲うが

守は剣を一振り振って全てを跳ね返すと

そこには王太郎がいなくて真後ろで何故か神楽をしていた。


「これが技術なのか?」「[吉良流四の形] 空」


「貴方にはわからないですか?」「神楽巫女」


そうして王太郎が御幣を振ると空から風で出来た

鳥居のような何かが数百個凄い速度で降って来て

それを守を襲うがいなすことでことなきを得ると

またしても王太郎がいなくて今度は真後ろでは無く

風によって出来た鳥居の上でまたしても神楽をしていた。


「そうかならば喰らえ!」「[吉良流奥義] 餓死万天(改)」


「攻略法を見つけたつもりですか?」「神楽巫女」


そうして王太郎が御幣を振るとそこには風で出来た

馬鹿でかいしめ縄のような何かが出て来てそれが守に向かってくるが

それを守は無視して斬撃で竹刀の射程を伸ばして辺り一体を攻撃すると

それを簡単に王太郎は避けて守は全身を馬鹿でかいしめ縄のような何かに

拘束をされてまたしても王太郎がいなくて今度は左に移動して

またしても神楽をしようとしたがその瞬間に王太郎は全身を切られた。


「この俺の勝ちだ」「[吉良流七の形] 大噴火(改)」


「拘束されて何も出来ない状態で勝利宣言か?」「神楽巫女」


そうして王太郎が御幣を振るとそこには風で出来た

陰陽玉のような何かが数百個出来てそれが全て守を襲うが

守は空気の圧によって半分の軌道を変えながらも

かなりの数の陰陽玉を喰らって守は瀕死になるも

王太郎がいなくて今度は真後ろで神楽をし始めたがそれを読んで

空気の圧によって軌道を変えたそれを当てて王太郎を瀕死にした。


「しめ縄はもう解けたぞ!」「[吉良流三の形] 影(改)」


「これをするだけだ!」「神楽巫女(改)」


そうして王太郎が御幣を振るとそこには風で出来た

陰陽玉のような何かが数百個出来て空から風で出来た

鳥居のような何かが数百個凄い速度で降って来て

それが王太郎にも全くわからないランダムで動いて見せた

そして守は王太郎に向かって竹刀を剣を盾を投げて見せたすると

それを王太郎は当然避けたが守は盾の裏に斬撃を仕掛けて王太郎を切って

そして避けて避けて避けて避けて避けて数十個当たって死にかけながらも。


「この俺の勝ちだ」


そうして気絶した王太郎を担いで休憩所に向かった。




◇◇◇




「よしと勝って帰ってきたぞ」


「だから見てましたからわかっています」


「少し休憩を取るから次の試合の時間になったら起こしてくれ」


「わかりましたわ」


「竹刀と剣と盾が風によって壊れたから予備をくれ」


「はいどうぞ」


そう言って乃々は予備を出して置いた。


「それじゃあおやすみ」


「おやすみなさい」


そう言って守は一旦眠りについて数分。


「起きてください」


「よしと試合に行ってくる」


「頑張ってください!!」


「めちゃくちゃ頑張らせてもらう」


そうして次に守は第三回戦に向かった。

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[解説「陰陽について」

Wikiから引用すると

陰陽(いんよう・おんよう・

おんみょう、拼音: yīnyáng、英: yin - yang[1])とは、

古代中国の思想に端を発し、森羅万象、宇宙のありとあらゆる事物を

さまざまな観点から陽(よう)と陰(いん)の

二つのカテゴリに分類する思想及び哲学[2]。

陽と陰とは互いに対立する属性を持った二つの気であり、

万物の生成消滅と言った変化は

この二気によって起こるとされる[3][4][5][6][7][8] 。


このような陰陽に基づいた思想や学説を陰陽思想、

陰陽論、陰陽説などと言い、五行思想とともに陰陽五行思想を構成した。


原初は混沌(カオス)の状態であると考え、

この混沌の中から澄んだ明白な気、

すなわち陽の気が上昇して天となり、濁った暗黒の気、

すなわち陰の気が下降して地となった。

この二気の働きによって万物の事象を理解し、

また将来までも予測しようというのが陰陽思想である。

能動的な性質、受動的な性質に分類する。

具体的には、陽・光・明・剛・火・夏・昼・動物・

男、陰・闇・暗・柔・水・冬・夜・植物・女などに分けられる。

これらは相反しつつも、一方がなければもう一方も存在し得ない。

森羅万象、宇宙のありとあらゆる物は、

相反する陽と陰の二気によって消長盛衰し、

陽と陰の二気が調和して初めて自然の秩序が保たれる。

陰陽二元論は、この世のものを善一元化のために

善と悪に分ける善悪二元論とは異なる。

陽は善ではなく、陰は悪ではない。陽は陰が、

陰は陽があってはじめて一つの要素となりえる。

あくまで森羅万象を構成する要素に過ぎない。

中国の戦国時代末期に五行思想と

一体で扱われるようになり、陰陽五行思想となった。


陰陽互根

陽があれば陰があり、陰があれば陽があるように、

互いが存在することで己が成り立つ考え方。

陰陽制約

提携律とも言い、陰陽が互いにバランスをとるよう作用する。

陽虚すれば陰虚、陰虚すれば陽虚し、陽実すれば陰実、陰実すれば陽実する。

陰陽消長

拮抗律とも言い、リズム変化である。陰陽の量的な変化である。

陽虚すれば陰実、陰虚すれば陽実し、陽実すれば陰虚、陰実すれば陽虚する。

陰陽転化

循環律とも言い、陰陽の質的な変化である。陽極まれば、

無極を経て陰に転化し、陰極まれば、無極を経て陽に転化する。

陰陽可分

交錯律とも言い、陰陽それぞれの中に様々な段階の陰陽がある。

陽中の陽、陰中の陽、陽中の陰、陰中の陰。


展開

陰と陽とはもともと天候と関係する言葉であり、

陽は日差しや日向、陰は曇りや日陰の意味として

『詩経』などの古書に表れる。『春秋左氏伝』昭公元年に

天の六気として陽・陰・風・雨・晦・明とあり、

ここで陰陽は寒暑の要因と考えられ、

また昭公四年には陽・陰・風・雨が

季節を特徴づける気候の要因として扱われている。

さらに『管子』幼官では明確に春の燥気・夏の陽気・秋の湿気・冬の陰気

として寒暑の原因とされるとともに四季(四時)の気候が

変化する要因として扱われている。

これがやがて四時の気を統轄する上位概念となり、

さらには万物の生成消滅と言った変化全般を司る概念、

万物の性質を二元に分類する概念へと昇華されたと考えられる。]


[解説「御幣について」

Wikiから引用すると

御幣(ごへい、おんべい、おんべ)とは、

神道の祭祀で捧げられ用いられる幣帛(へいはく)の一種で、

2本の紙垂(しで)を竹または木の幣串に挟んだものである。

幣束(へいそく)、幣(ぬさ)[1]ともいう。


通常、紙垂は白い紙で作るが、御幣にとりつける紙垂は、

白だけでなく五色の紙や金箔・銀箔が用いられることもある。

「幣」は麻(麻布)、「帛」は絹(白絹、絹布)を意味する。

両者は捧げ物の代表的な事物であることから、

本来「幣帛」で神々への捧げ物の「総称」を意味する。

「幣帛」は「充座」(みてぐら)、「礼代」(いやじり)ともいう。

「幣帛」は、広義では神饌(食物)も含むが、

狭義では神饌に対する特に布類を指す。

布類では麻布が主流なので、主に「幣」の字が用いられることになる。

現物の代わりに「幣帛料」として捧げられる金銭を「金幣」という。

「御幣」とは、神々への捧げ物を意味し、

貴重な品を示す「幣」(へい)に、尊称の「御」(ご)を付けたものである。

捧げ物としての御幣の中心は、両側に長く折り下げられた

部位(紙垂)ではなく、串に挿(はさ)まれた部分、そのものにある。

なお、「貨幣・紙幣」の「幣」も御幣の「幣」に由来する。


御幣の歴史

日本では、古墳時代の頃すなわち日本国家の創成期、

神話の時代から、神々に対し貴重な品々「幣帛」を捧げてきた。

それらは稲(米)、酒(みき、酒造技術)、

塩、魚などの神饌(みけ)のほか、鉄製の武器(刀剣類)や

農工具(=製鉄・鍛造技術)・器・玉(=宝飾加工技術)

・鏡(=鋳造・研磨技術)・衣類・布類(=養蚕・製糸・織布技術)など、

その時代の最先端技術を象徴する物でもあった。

また、これらの品々は神々の霊魂が宿る依り代、神々の象徴でもあった。

その後、奈良時代後半から

平安時代前期にかけて、幣帛は特に布類を指すようになる。

捧げ方も多様化し、折り畳んだ布を串=

「幣挿木」(へいはさむき)に挿んで捧げる形式が登場する。

この幣挿木が現代の御幣へとつながっていく。

幣挿木が神々への捧げ物だと示すため、

捧げ物本体である「幣帛」(=布類)とともに、

神聖性を表現する木の皮の繊維(木綿という)や

麻を串に挿んで垂らしたのである。

時代が経つにつれ、「幣帛」は「布」に代わって

「紙」を用いるようにもなる。「紙」もまた、

当時の貴重な品であった。この際も「木綿・麻」を垂らしていたが、

その代わりに、細長く折り下げた紙を両側に垂らす

形式も見られるようになる(13世紀末頃)。これを「紙垂」(しで)と呼ぶ。

室町時代から江戸時代にかけて、榊(玉串・真榊)のほか、

神前に御幣を捧げる形が普及・定着化し、中世以降の御幣は、

捧げ物本体である「幣紙」と神聖性を示す

「紙垂」とそれらを挿む「幣串」から成る構造が、一般的となる。

その後、御幣の基本的な構造に変わりは見られないが、

祭のたびに幣紙・紙垂部分が新調され、

紙垂を大きく作る形式も広まっていった。

木綿・麻と同様に細かった紙垂は、徐々に太く大きくなり、

挿む位置も上部になる例が多く見られるようになった。

やがて、幣紙と紙垂が一体化した形式も現れることになる。

その特徴的な造形から、次第に紙垂部分が強調されていき、

白紙のほか、染色した紙や金属製の紙垂部分を持つ御幣も現れ、

紙垂の持つ印象はさらに強くなっていった。

今でこそ、「紙垂」こそが御幣の象徴として認識されることもあるが、

元来の捧げ物としての性格を受け継ぐのは、

その中心である「幣帛」部分であり、

そこには、各時代における最上の品が用いられていた。

こうして、神話の時代から現代まで

捧げられ続けているのが「御幣」なのである。

その由来から、元々は神に捧げるものであったが、

後に社殿の中に立てて「神の依代」あるいは「御神体」として、

あるいは祓串のように参拝者に対する

「祓具」としても用いるようにもなった。

なお、長い棒や竹の先端に幣束を何本か

取付けたもののことを、特に「梵天」(ぼんてん)という。

紙が普及する以前は、ヤナギ、ニワトコ、ヌルデ、クルミ、

マツなどの木の肌の一部を薄く削ぎ、

渦状にちぢらせて残し垂らしておく「飾り棒削り掛け」も

御幣の古い形の祭具として用いられた[4][5][6]。

「削り花」(削花、ハナとも)、「穂垂」(ほたれ)、

「掻垂」(かいたれ)とも[4][6]。アイヌにも同様のイナウがある[4]。]


[解説「神楽について」

Wikiから引用すると

神楽(かぐら)は、日本の神道の神事に

おいて神に奉納するため奏される歌舞。


巫女神楽(柏原八幡)

神社の祭礼などで見受けられ、まれに仏教寺院でも行われる。

平安時代中期に様式が完成したとされ、約90首の神楽歌が存在する[1]。

神社に「神楽殿」がある場合、神楽はそこで行われる事が多い。

一般に、「かぐら」の語源は「神座」

(かむくら・かみくら)が転じたとされる。

神座は「神の宿るところ」「招魂・鎮魂を行う場所」を意味し、

神座に神々を降ろし、巫・巫女が人々の穢れを祓ったり、

神懸かりして人々と交流したりするなど神人一体の宴の場であり、

そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになったとされる。

『古事記』『日本書紀』の岩戸隠れの段で

アメノウズメが神懸りして舞った舞いが神楽の起源とされる。

アメノウズメの子孫とされる猿女君が宮中で鎮魂の儀に関わるため、

本来神楽は本来、招魂や鎮魂、魂振に伴う神遊びだったとも考えられる。

神楽は、宮中の御神楽(みかぐら)と、

民間の里神楽(さとかぐら)に分けられる。

また幾つかの神社では、近代に作られた神楽も行われている。

国の重要無形民俗文化財に指定されている神楽が

2022年10月時点で40あり、このうち20都道県の

29神楽の保存に取り組む71団体と所在地自治体が同月11日、

「全国神楽継承・振興協議会」の設立総会を開いた[2]。

設立を呼び掛けた宮崎県内だけで22市町村に204の神楽があるが、

地方の人口減少で存続が危ぶまれている神楽もある[2]。]


[解説「しめ縄について」

Wikiから引用すると

注連縄(しめなわ)は、神道における神祭具で、

糸の字の象形を成す紙垂(しで)をつけた縄。

神聖な区域とその外とを区分するための標(しめ)である[1][2]。

注連縄の形式によっては縄の下に七本、五本、三本の藁を垂らす[2]。

以上の理由から、標縄、〆縄、七五三縄などとも表記する[2]。


出雲大社の注連縄は一般的な注連縄とは逆に左から綯い始めている

平安時代以降では神仏混淆により仏教

(特に密教)においても結界の意味で使用することがある。


現在の神社神道では「社(やしろ)」・

神域と現世を隔てる結界の役割を持つ[3]。

また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、

厄や禍を祓ったりする意味もある。御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)

として神がここに宿る印ともされる。古神道においては、

神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する

現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、

場所によっては禁足地の印にもなる。具体的には、

巨石、巨樹、滝などにも注連縄は張られる[4]。

御旅所や海の奇岩などにも注連縄が張られる[注 1]。

また日本の正月に、家々の門や、玄関や、出入り口、

また、車や自転車などにする注連飾りも、注連縄の一形態であり、

厄や禍を祓う結界の意味を持つ。大相撲の最高位の大関の中で、

選ばれた特別な力士だけが、締めることができる横綱も注連縄である[4]。

江戸時代、お蔭参りのために使わした「お蔭犬」にも、

その目印として首に巻かれることがあった[5] 。

現在でも水田などで雷(稲妻)が落ちた場所を青竹で囲い、

注連縄を張って、五穀豊穣を願う慣わしが各地に残る。

料理店などの調理場にかけられる玉暖簾も聖なる

領域と俗なる領域を結界する注連縄の意を持っている[3]。

祝いの席での酒樽に注連縄を付けることもあり

神聖で特別な意味を持たせている[4]。

仏教真言宗の総本山である高野山では、注連縄の代わりに

中国の剪紙に起源をもつ「切り紙」(または「宝来(ほうらい)」)

と呼ばれる切り絵を神棚に、あるいは護符として床の間や玄関に飾り、

新年とともに掛け替える風習がある。

干支などが描かれることから「えとがみ」とも言われる[6]。


起源

古事記では天照大神が天岩戸から出た際に

二度と天岩戸に入れないよう岩戸に注連縄を張ったとされている[4]。

刈り取った新しい稲わらや茅(かや)を使って

作られ蘇民将来の話とも関連が深い風習である[1]。

「天岩戸」を参照

注連縄の「しめ」とは「占める」ことを指し、

縄が神域と俗界を分けるものであることを表す。

古語の「しりくめなわ」は、尻(端)を切らないで垂らしておく縄の意。

なお、「注連縄」と書いた時の注連(ちゅうれん)とは、

中国において死者が出た家の門に張る縄のことで、

故人の霊が再び帰ってこないようにした風習である。

これが門に縄を渡すさまや、霊的な結界で

あることが日本のしめ縄と似ているので字を当てたのである[7][8]。]

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