第2話 ダブルレインボーを渡ったメリー
明くる日は、しとしとと降る小雨だった。お昼ご飯をいつもより早めに食べて、庭にハサミを持って出た。カサブランカはまさに見頃だった。3本切って、濡れないように急いで家に入り、花を輪ゴムで結いて、お菓子の綺麗な包装紙で花束にした。そして、
『椎名さん、柏木です。今から行きます。』
と、メールを打って家を出た。傘をさして歩きながら、空を見上げて呟く。
「涙雨だわ。」
モスグリーンのストライプのシャツにブルージーンズを履いて、靴下の上にスニーカーを履いている。平服で、と言われたので、全くの普段着にした。
十分ほど歩くと、椎名さんの家の前に着いた。門の前で、インターホンを押した。すぐに玄関からちょうど私と同じ年頃の女の人が顔を出した。
「あ、すみません。不躾なお願いなのに、叶えてくださって、本当にありがとうございます。」
椎名和佳子さんは、中肉中背で、髪をポニーテールに結いていた。そして、エプロン姿だった。
「お入りください。」
私は軽く会釈をすると、玄関の中に招き入れられて、ユリの花束を和佳子さんに渡した。
「これ、庭に咲いていたカサブランカです。ちょうど綺麗だったので、メリーちゃんに。」
和佳子さんは、少し驚いて、
「まあ、すみません。綺麗なユリですね。ありがとうございます。」
と言いながら、スリッパを揃えてくれた。私はスニーカーを脱いで、スリッパを履くと、
「メリーをお見せする前に、お話しさせてください。うちの夫ですが。」
「はい?」
「寝たきりなんです。病気で。」
「あ。」
「はい。意識はあります。でも、歩けないし、首から下は自分では動かせないんです。」
私は、急にそんな話をされて、驚いてしまった。
「リビングにリクライニングの付いたベッドを置いて、そこに主人はいます。言葉は話せます。」
私は、驚きを隠すように、平静を装って、
「はい。わかりました。」
と、返事を返して、和佳子さんに続いてリビングに入った。しかし、かなり動揺していた。無理もないと思う。
「あなた。柏木さんです。メリーにお線香あげに来てくださったの。この立派なユリもいただいたわ。」
和佳子さんがベッドを四十五度くらい立てて寝ているご主人にこう話しかける。私は、
「初めまして。この度は残念です。私も犬を飼っています。ラブラドールです。」
ご主人は、はっきりとした声で、
「ありがとうございます。私がこんな体なので、和佳子一人では、メリーの納棺がきついだろうと思っていました。ありがとうございます。」
「いいえ。私もお気持ちわかります。今の犬の前に、柴犬に死なれた時、大変でした。」
和佳子さんは、キッチンへ向かい、オーブンからやがて香ばしいいい匂いがして来た。
「メリーちゃんはどこですか?」
私はリビングの中を見回したが、段ボール箱らしきものは無く、犬の遺体も見えなかった。和佳子さんがやって来て、
「こっちの部屋の方が涼しいかと思って。」
と、隣の和室のドアを開けた。
メリーちゃんはまるで眠っているかのように安らかな顔をして、和室の真ん中に横たわっていた。そばに、ちょうど良い大きさの段ボール箱が用意されていて、中にバスタオルが敷いてある。お線香が焚かれていて、煙が細く立ち上っていた。
私は手を合わせて、メリーちゃんの顔をよく見た。
「安らかなお顔。苦しまなかったのですね。」
私はそう言って、メリーちゃんを見つめていた。和佳子さんは、
「はい。眠るように逝きました。今、軍手をしてメリーを箱に収めます。」
私は、スマホを出すと、
「昨日、お手紙に気付いた時、空に綺麗な二重の虹が架かったんです。私、写真を撮ったので、見てください。もしかして、メリーちゃんが天国へ着いたお知らせかしら、と思って。」
和佳子さんは振り向いて、目を見張るようにしていた。
「私、気付きませんでした。お写真、写メでいただけませんか?」
「はい。もちろん。」
和佳子さんは、手に軍手をはめて、メリーちゃんをそっと持ち上げ、段ボール箱の中に横たえた。
「不思議だわ。柏木さんが来てくださったから、もう、涙が出ないです。」
私は黙っていたが、内心、この環境で一人で犬の遺体を納棺するのは、きっと辛かったと理解できた。この人は、どうして友達がいないんだろう。必要なのに。
それから、おもちゃ、ぬいぐるみ、おやつのジャーキーとドッグフードを入れ、私は、
「このユリも切って入れてあげてください。」
と言った。和佳子さんは、黙ってハサミを持って来て、カサブランカを花だけ切って、三輪、メリーちゃんの顔のそば、足下、背中の上に置いた。
私は促されるまま、お線香に火を点けて、炎を振り消し、香炉に入れた。そして、手を合わせて拝んだ。和佳子さんは、
「ありがとうございました。主人にメリーを見せます。」
と言って、段ボール箱をリビングに運び、ご主人のベッドの横に置いた。ご主人は、
「うん、うん、安らかに眠ってな、メリー。」
と言いながら、目線を動かして、メリーちゃんをよく見た。ご夫婦は、涙もなく、和佳子さんは、
「柏木さんが一緒にいてくださって、心強かったわ。お花もこんなに綺麗。メリーが喜んでるね。」
と、ご主人に向かって言った。そして、
「ありがとうございました。明日、火葬してもらいます。車で運びます。もう大丈夫です。本当にお世話になりました。」
「私は何も。見ていただけです。」
「見事な虹を見せていただいたの。お写真、いただいたのよ。これ。二重の虹。ダブルレインボーよ。昨日、出たんですって。メリーが天国に着いた知らせじゃないかって。嬉しいわね。」
ご主人は写真を見て、
「へえ。これは立派な虹だね。珍しいね。」
と、初めて涙ぐんだ。
「メリーは間違いなく天国にいるよ。」
和佳子さんは、
「私、シフォンケーキを焼いたんです。召し上がっていってください。お紅茶とコーヒー、どちらがいいですか?」
と、私に訊いたので、私は、
「それでは、お言葉に甘えて、お紅茶で。」
と、遠慮なく選んだ。
「三人でお茶にしましょう。」
和佳子さんは、シフォンケーキを乗せた小皿を三つ、紅茶を三つ運んで来た。
和佳子さんは、ご主人のベッドの脇に行き、リクライニングの角度を変えて、直角にして、ご主人の首の周りにタオルを巻いた。そして、シフォンケーキを一口、フォークで小さく切って、口元へ運ぶ。ご主人は黙って口を開け、食べた。そして、和佳子さんは、熱い紅茶をふうふう冷まして、スプーンですくってご主人の口に流し込んだ。
「いただきます。美味しそう。」
私も一口食べて、美味しいと思った。緩くホイップした生クリームが添えてあるので、少しケーキにつけて食べる。紅茶は香りの良いアールグレイだった。
私はしばらくして、口を開いた。
「あの、お友達、いないって、どうしてかな、と思って。こんなに素敵な方なのに。和佳子さん、お手紙の字がお綺麗で、私、驚きました。あんな綺麗な筆跡は私、初めて見ました。」
和佳子さんは、
「あ、ペン字だけ習ってるんです。通信教育です。でも、そんなに褒めていただけるようなものでは。」
私は、
「私で良ければ、時々、お会いしてお話ししませんか?」
和佳子さんは、
「はい。嬉しいです。メールくださったので、また、私からも連絡させてください。」
「家も近いんですから。それから、メリーちゃんのお顔を写真に撮っておかれたらどうですか?」
和佳子さんは、
「死顔を撮るのは、どうしましょう。」
と、躊躇った。ご主人は、
「撮っておけ。最後なんだから。」
と、促したので、和佳子さんは、デジタルカメラを持って来て、段ボール箱に入っているメリーちゃんを写真に撮った。そして、
「なんか、吹っ切れたわ、私。メリーが自分の子供みたいだと思ってたけど、この子はワンコなのよね。私たちより速く逝っちゃうのは運命ですもの。」
私は、
「和佳子さん、強いわ。」
と、妙に感心した。和佳子さんは、
「柏木さんのおかげです。私一人じゃ、とてもこんなにできなかったです。ダブルレインボーも嬉しかったし。恥を忍んでお手紙書いて良かったです。ありがとうございました。」
私は、
「明日の火葬、お一人で大丈夫ですか?私、明日、午後なら時間ありますけど。」
と、念のために尋ねると、
「本当ですか?いいんですか?実は不安なんです。」
和佳子さんの顔がパッと明るくなった。
「でも、甘えすぎです。」
「いいえ。いいのよ。辛い時は助け合うのが人間ですよ。」
和佳子さんは、ホッとした様子で、
「じゃあ、甘えます。明日、車でおうちまで伺います。そのあしでそのまま霊園まで行きませんか?」
「服装は?」
「もちろん、平服で。ペットですもの。」
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