宛名の無い手紙
長井景維子
第1話 ブルーの封筒
その手紙がポストに届いたのは、ダブルレインボーが架かったある雨上がりの夕暮れだった。虹に見惚れて、玄関を出たところで、石段を踏み外しそうになった。足首をくじいて、思わずその場にしゃがみこんだ。両手で足首を揉みほぐし、ゆっくりと立ち上がる。痛みがなかったので、安堵して、ポストの中を覗いた。
ポストの中には、封書が一通入っていた。水色の封筒。宛名も差出人の名前もない。住所も書いてない。水色の封筒には、表も裏も何も書かれていなかった。切手は一枚、お愛想のように貼ってはある。八十四円の切手だ。だが、消印はない。
「なんだ?これ。」
私は封筒をしばらく眺めていたが、このポストに入っているんだから、私が開封して構わないのだろうと思った。空にはダブルレインボーが相変わらず見事に輝いていた。私はポケットからスマホを取り出すと、その見事な虹に向かってシャッターを切った。そして、玄関のドアを開けて中に入り、慣れた手つきで右手だけを使って、インスタグラムにその写真をアップした。
そして、リビングのソファーに座って、封書の封をハサミで切り、中の便箋を取り出した。便箋は封筒と同じく水色で、ほんのりと薔薇の匂いがした。
便箋の折り目を開いて、あまりに綺麗な筆跡に、息を呑んだ。一文字一文字、心を込めて、丁寧に書かれたのだろう。縦書きに、つづき文字ではなく、楷書で美しく書かれている。私は読み始めた。
『こんにちは。驚かれたことでしょう。名前のない手紙を受け取ることに、抵抗はありませんでしたか。これを書いている私は、もちろんこれを読んでいるあなたを存じ上げないし、あなたも私のことをご存知ないと思います。自己紹介をする前に、なぜ、あなたに手紙を書いたか、説明しますね。
昨日、愛犬のメリーが天国に行きました。シェットランドシープドッグのメスで、十八歳でした。老衰です。この犬のお葬式をしたいので、同じく犬を飼ってらっしゃるあなたなら、もしかしてお線香をあげてくださるのではないか、と思ったのです。もし、明日、お昼過ぎにお時間があったら、我が家へ(住所はあとで書きます)いらしてください。平服で、御数珠も何も要りません。お手製のお菓子を焼いてお待ちします。
あ、犬を飼ってらっしゃることは、お散歩で近所を歩いていらっしゃるところを、私も同じくメリーの散歩の時にお見かけしているのです。
突然、お手紙を差し上げた上に、急なお願いまでして、不躾だとは重々わかっています。あなたのお名前も存じ上げないのに、すみません。
自己紹介をします。椎名和佳子と云います。夫と二人暮らしです。子供はいません。
パートタイムで薬剤師をするかたわら、小説を書いています。
子供がいないので、メリーは我が子のようでした。今、ぽっかりと心に穴が開いたようです。段ボール箱にメリーの体を収め、メリーが好きだった、おもちゃのボールやぬいぐるみ、ドッグフードを詰めてやろうと思いますが、メリーの体を見ると、涙が溢れてしまいます。あなたと一緒にその作業をしたいです。甘えてますね。
メリーは明後日、動物霊園で火葬してもらいます。私はこんな時に来てもらえる友達がいないのです。だからって、どうしてあなたに?
それは、メリーがあなたのワンちゃんを慕っていたからなのです。メリーは、あなたのワンちゃんがマーキングしたところを、辿るように歩きたがりました。だから、メリーはいつもあなたとあなたのワンちゃんの後をついて行ったのです。それで、私もあなたのお家を覚え、あなたのワンちゃんも覚えました。あなたのお顔は知っています。私と同じ年頃のあなたになら、お願いできそう、と思ったのです。
もし、お時間あったら、いらしてください。住所は同じ町内の二丁目30の23です。メールアドレスも書いておきます。
椎名和佳子』
読み終えると、私はしばし放心状態になった。見ず知らずの人に、愛犬のお葬式に来て欲しいと頼まれた。行ってあげるべきか。断るべきか。断るなら、メールをするべきだろうし、行くにしても、メールするべきか。
ダブルレインボーはもう消えていた。あの見事な虹は、メリーちゃんが天国に着いたことを知らせていたのかもしれない。このことを椎名さんに教えてあげたい。インスタに虹の写真をアップしたので、それを見せよう。やっぱり行ってあげよう、と思った。庭に、真っ白な大輪のカサブランカが咲いている。この花を切って持って行こう。
夫が勤めから帰って来たので、この宛名の無い手紙を見せた。すると、彼は、
「ずいぶん、変わった人だなあ。犬好きなことしか共通点はないのに、お葬式に行ったら、なんか友達にもなりたがってるような感じだね。」
と、感想をそのまま率直に述べた。私は、
「でも、私の名前は知らないにしろ、私の姿はよく見かけていて、それで、こんなに頼ってくれてるんだもの、答えたいわ。メリーちゃんが、ロッキーのこと好きだったのよね。それも、なんかの縁だと思ったのでしょうね。この手紙書くの、勇気いったと思うのよ。」
と、椎名さんの肩を持った。私は続けた。
「友達になれるかどうかは置いといて、お線香あげてあげようと思う。でも、不思議なんだけど、ご主人は犬には構わない人なのかなあ?普通、ご夫婦ですることを、私に頼むって、ちょっと不思議だね。」
夫は頷きながら、
「そうだね。不思議だ。ちょっときみ悪いよ、俺は。ま、行きたいなら行ってくれば。近いんだし。」
「うん。庭のユリを切って持って行くわ。」
私はそう言うと、夕飯の後片付けを済ませて、スマホで椎名さんにメールを打った。
『お手紙拝読しました。明日、暇です。お昼過ぎに伺わせて頂きます。メリーちゃんにお線香あげさせてください。私は柏木裕子です。詳しい話はまた明日しましょう。それでは、明日。』
と、手短かに打った。愛犬のロッキーが何も知らずに戯れてくる。
「ロッキー、お前のこと、好きなワンちゃんがいたんだって。会いたかったね。」
私はロッキーの頭を撫でながら、
(そうだ。ロッキー、連れて行こうか。)
と思ったりしたが、椎名さんは愛犬を亡くしたばかりなのに、ロッキーを連れた私を見るのは辛いかもしれないと思い、思いとどまった。
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