異世界バット～魔法が使えないので、バットで戦います～

02豚の化け物

　俺が振り返ったその視線の先にいたのは二足歩行で豚の顔をした巨大な化け物だった。

　身長は３メートルを優に超えている。腹は丸々としているが、腕や足の筋肉が異常なまでに隆起しており手に棍棒を持っていた。口からはよだれが垂れ、目は血のように赤い。

　初めて出会う生物だが一目で理解できた。こいつは凶暴で獰猛な生物だ。今、自分に生命の危機が迫っていると本能が告げている。

　俺はその化け物に背を向け、一目散に走って逃げ出した。

「うぉぉぉおお！！　なんだあの豚の化け物。何であんなのがここにいるんだ！？　やっぱり地獄か？　ここは地獄なのか！？」

　ずっと野球一筋で真面目に生きてきた。

　他人に暴力を振るったことなんてないし、当然盗みも、飲酒喫煙もしたことがない。

　それなのにどうしてこのような仕打ちを受けているのだろうか。

　木々を避けて少し抜けると、狭いが一応道のようなものがあった。これなら問題なく全力疾走で逃げることができる。

　地響きのような足音が聞こえてくるが、どうやらあの化け物は足がそこまで速いわけではないらしい。

　俺は走るのが得意だ。部の中でも一番の俊足だった。おそらくこのままいけばなんとか逃げ切ることができるだろう。

　バキッバキバキッ！！

　姿こそ見えないが、恐らくあの化け物がいる場所から木がへし折れる音が聞こえた。俺はその音は化け物が木をなぎ倒しながら歩近づいてきている音だと思っていた。

　しかし次の瞬間化け物の咆哮が聞こえ、それと同時に根元からへし折られた木が空へと打ち上げられた。

「おいおいおい！嘘だろぉぉぉ！！」

　こん棒を持っていたことから道具を扱う知能があることは分かっていたが、木をまるごと投げつけてくるなんてどんないかれたパワーをしているんだ。

　宙を舞う木は俺へ向かって勢いよく落下してくる。

　――ドンッ！！

　投げられた木は勢いよく地面へとぶつかり砕け散った。

　とっさにその場から飛びのいて直撃こそ避けたものの、地面に転がった俺の体に砕けた木片がいくつもぶつかった。

「っっつ！？」

　足に激痛が走る。

　痛みを感じた部位に目を向けると、砕けた木の破片の一つが、右足に深々と突き刺さっていた。

　――最悪だ。

　血が流れズキズキと痛む。本来なら走っていいようなケガではない。すぐに病院へ行って処置をし、安静にしなければ後遺症も残るだろう。

　しかし、今はそれでも立ち上がって走らなくてはならない。

　そうしなければ待ち受けているのは死だ。あの化け物に体をバキバキに潰されて殺されるだろう。

　俺は立ち上がって足を踏み出す。痛みが強くなり、思い通りに動いてはくれない。それでなんとか引きずるようにして前に進む。

　バキバキッ！！

　また同じように気がへし折れる音が響く。

　豚の化け物が、木々を押し退け俺がいる場所までもうやって来ていた。豚の化け物は俺が既にまともに動けなくなっていることに気づき、俺の目を見ながらニタリと下品な笑みを浮かべた。

　そして、再び足元にある折れた木を持ち上、自分の頭の上にかかげると、砲丸を投げるかのように振りかぶる。

　先ほどは距離があったので直撃こそ避けることができたが、この近い距離、しかも、足をまともに動かすこともできない状態。

　――あぁ、死んだな。

　俺は覚悟して目をつぶった。

「……ん？」

　次の瞬間には俺は投げつけられた木に押し潰されて絶命してしまうはずだったが、何の衝撃も痛みも訪れることはなかった。

　俺は恐る恐る目を開けて何が起こったのかを確認する。

　そして最初に俺が目にしたのはとても綺麗な女性の顔だった。

　切れ長の目にエメラルドのような輝く瞳、無造作でありながらキラキラと輝く金髪、透き通るかのような白い肌、そして尖った両耳。

「大丈夫だったか？」

　女性にしては少し低めの声で彼女は尋ねた。

　改めて状況を確認すると、俺はいわゆるお姫様だっこの状態で彼女に抱えられていた。あの化け物が投擲した木がぶつかる前に彼女に助けられたらしい。

「あ、は、はい」

「あいつはこの辺りのオークのボスだ。冒険者だとしても初心者にはちょっときつい獲物だ」

「ええと、冒険者？」

「違うのかい？　一人でこの辺りにいるのなんて冒険者ぐらいだと思ったが。そういえば、見たことのない変わった格好をしているね。この辺りの人間ではないのかな？」

　彼女の問いにどう答えたらいいのかわからず困惑していると、豚の鳴き声にギターのディストーションをかけたかのような咆哮が響いた。

　あの豚の化け物が獲物を盗られたと思い怒り狂っているようだ。こちらへ向かって地響きを立てながら近づいてくる。

「まぁ、細かい話は後にして、まずはあれを片付けておこう」

　彼女は俺を地面に下ろし、腰にぶら下げていた剣を抜く。

　――そして、その場から消えた。

　いや、彼女は俺の目に見えないほどの速さで動いていたのだ。

　彼女は超高速で動き、襲ってきた豚の化け物の首を一瞬のうちに剣で掻っ切っていた。

　首を切られ絶命した豚の化け物の体は地面に崩れ落ち、湖のほとりで遭遇したあの透明な生き物と同じように水色の水晶のような物体を残して砂になって消えた。

「ドロップアイテムはなしか。オークのドロップ率は渋すぎるな」

　彼女は愚痴るようにそうこぼし、剣を鞘にしまいながら俺のところへと戻ってきた。

「怪我をしてるね。話を聞く前に先にそっちを治そうか」

　彼女は俺の足から木の破片を引き抜き、包帯や薬を出すでもなく傷に向かって手をかざした。

「《ヒール》」

　彼女の手のひらから緑色の光が放たれた。その光がキズを包み込み、瞬く間に傷がふざかっていく。

「この近くに私の家がある。詳しい話はそこで聞くとしよう」

　俺は目の前で起こる現実とは思えない出来事の数々に言葉を失いながらも頷いていた。

　きっと彼女が俺に聞きたいこと以上に、俺が聞かなければいけないことがある。

　一体何から聞いたらいいのか分からないぐらいだが。