第42話 逃走
ポイと口に咥えた伊織を蔵之助の前に放り出すと、タマは蔵之助の頬をペシペシと叩く。
「伊織、耳は?」
「はい。蔵之助の耳は、齧りました」
「ふむふむ。良く気付いた」
「よく気付いたではありませんよ。知っていたなら、ちゃんと教えてくださいよ」
「しかし自分で気づくことが大切じゃろう」
「いや、こんな切羽詰まった時に!」
^_^
タマと一緒にいる間に、幾分か伊織は回復したのか饒舌になっている。
タマの肉球に優しく叩かれて気持ちが良いのか、蔵之助の口元が緩む。
「伊織はそれだけ話せれば、大丈夫じゃ。後は蔵之助。おい!」
「ふぇぇぇぇ」
「駄目だな。伊織、頼んだぞ」
「ええ! 蔵之助は、寝覚めが悪いんですよ?」
「無念が来る」
タマに言われて振り返れば、じわじわと広がる無念の黒雲が、伊織達に迫る。
ブルブルと身震いをしたタマが、青い火を纏って黒雲に突っ込めば、黒雲はタマを飲み込もうと、タマを中心に渦巻き始める。
タマの戦いは気になるが、それどころではない。
伊織は、慌てて蔵之助を柱にくくり付けていたふんどしをほどく。
「蔵之助! 蔵之助!」
必死で蔵之助を揺さぶれば、ようやく蔵之助が薄目を開ける。
「なんか……全身が痛い……」
それは、伊織が原因である。
蔵之助がどこを齧れば目が覚めるのかが分からなかったから、可能性のありそうなところはずいぶんと齧った。
「いいから! 早くふんどしを締めて! さっさと逃げないと」
「え、なんで俺、ふんどし外れているの? 何? どういうことだ?」
それも伊織が原因である。
蔵之助が正気に戻らなかった時を想定して、蔵之助を縛るのに使った。
「いいから! ほら! 無念がくるから! 早く!」
「お、おう?」
蔵之助が何がなんだか把握できないままに、急かされて起き上がる。
「おい! こっちだ! お前達!」
まだ気を失ったままの陽介をかついで五社が伊織達に声をかける。
五社の後ろには、由岐もいる。
伊織と蔵之助も、五社達と合流する。
「気を抜くな。外は敵でいっぱいだ」
道場の表に出た途端、伊織達は大勢の敵に囲まれる。虚な目をした人々は、無表情なまま伊織達に剣を向けている。
「この人達は、無念に操られた……」
「そうだ。気をつけろ。分かっているとは思うが、こいつら殴っても殴っても立ち上がってきてしつこい」
持っていろと五社に言われて、伊織と蔵之助は気を失っている陽介を担ぐ。
「走るぞ。お前ら」
「えっタマさんは?」
「タマさんが負けるわけないだろうが! 放っておけ! 行くぞ!」
「待ってください、五社先生! 僕の剣を……」
無念に剣を刺して、素手になった五社に、伊織は剣を渡そうとしたのだ。
「うわっ、容赦ねぇ……」
蔵之助が言う通りだった。
五社の拳が、敵の顔にめり込む。
吹っ飛ばされた敵が、他の敵とぶつかって幾人かが倒れる。
「あの人、ここへ来る時もあんな感じで薙ぎ倒して来たのかしら」
由岐が、ドン引いている。
「ほら、さっさとしろ。道は出来た」
しれっとそう言う五社に、伊織は「うわぁ……」と、引き攣った顔を向けた。
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