第41話 限界点

 ただ時間を稼ぐ。

 そのことだけに、集中した伊織であったが、その程度で埋まる技量の差ではなかった。


 余裕の無念が、笑みを浮かべながら伊織をいたぶるのは、四苦八苦する伊織の様子を楽しんでいるのであろう。

 獲物を追い詰めていたぶる獣の所業に、伊織は翻弄される。


 とうとう壁際まで追い詰められて、逃げ場を失った伊織は、それでも剣を構えて無念を睨む。


「まだ闘争心を失わぬか。仲間を置いて逃げれば助かるかもしれぬのに」

「教わった剣は、生きるための剣です」

「生きる? その剣のために死にかけているというのに」


 無念が冷たく笑う。

 まだ、まだ何か方法はないかと、伊織は考えを巡らせるが、力量の差があり過ぎて、良い考えは浮かばない。


「お前、もう飽きた」


 無念の眼が、一際暗く光る。

 すぅっと、無念の剣が高く上がった瞬間に、さすがの伊織も最期を覚悟した。

 蔵之助、陽介に続いての無念との対決である。

 腕も限界まで痺れ、体中に疲れは溜まっている。

 伊織は、自らに対抗する力が残っていないことを自覚する。


「お前の勝ちだ。伊織」


 覚悟した刃は、伊織に落ちて来なかった。

 剣を高く振り上げてガラ空きであった無念の脇腹に、深く突き刺さるのは、五社の持つ刃であった。


「ご、五社先生!」

「よく頑張った。伊織」


 五社は、優しい笑みを伊織に向けると、刺した刃を返して引き抜いた。


「ぐっ……」


 無念の顔が歪む。

 無念は、黒雲へと変じて、ドス黒く広がり始める。


「下がれ! 伊織」


 五社が伊織を抱えて後ろへと跳ぶ。

 ジワジワと無念が変じた黒雲が広がっていく。


「五社先生、由岐と陽介をお願いいたします。僕は、蔵之助を起こします!」

「分かった!」


 ここからは、由岐と陽介の方が近い。

 五社に由岐と陽介を見てもらった方が、全員の命が助かる確率か上がる。


 伊織は、五社の手から離れてヨタヨタと蔵之助の方へと足を引きずる。

 どうやら、死を覚悟した時から集中力が切れてしまったようで、全身が重い。

 こんな重い体でよく無念の剣を受けていたと、自分でも不思議に思う。

 だが、まだ弱音は吐いていられない。

 伊織が頑張らなければ、蔵之助を巻き込んでしまう。

 

 伊織は、悲鳴を上げる体を、必死に前へ進めてゆく。

 目がかすむ。視界がぼやけてくる。

 伊織の限界は、とうに突破していたのだろう。蔵之助を助けないと……そう自分を鼓舞するのに、動けない。


 父母を失った時とまるで成長していない自分に、伊織は腹が立つ。目の前で強盗に殺される両親を殺された。誰も助けられなかった。悔しい。

 だが、どう叱咤してみても、伊織の体は動いてくれない。


 足元に黒い塊がトグロを巻き始める。無念の黒雲だ。


ーードン!


 そのまま伊織を中に取り込むはずであった黒雲の上に、大きな猫が落ちてくる。


「遅うなった!!!!」


 妖無念の黒雲を踏み潰して、猫は青い炎を纏って嗤う。


「タマ……さん?」


 熊ほどの大きさのタマが、ブルブルと全身を震わせると、タマの体にまとわりついていた無数のネズミがバラバラと落ちる。


 ネズミは皆、焼け焦げているとこほをみると、タマが妖の炎で焼いたのであろう。


「もう、しつこいのなんの!」


 タマはタマで戦っていたということであろう。ネズミに噛まれたのか、タマの体は傷だらけである。


「蔵之助のところへ行くのじゃな」


 タマは、伊織をひょいと口に咥えると、トトトトッと軽やかに歩き出した。

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