第12話 生姜湯
元気がなかった由岐の様子がどうしても気になって、伊織は蔵之助が寝た後で部屋を抜け出して由岐の部屋の前に向かう。
蔵之助が寝るのを待ったのは、どうも蔵之助に流されて、前回は由岐に叱られてしまったから。
伊織の手には、生姜湯の入った湯呑みを載せた盆がある。
障子を開けてもらえなかったとしても、由岐に、生姜湯を飲んで少し気を落ち着けて欲しいからだ。
空には満月から少しだけ欠けた月が浮かんでいる。渡る風はもうすぐ来る冬を予感させて冷たいが、この間まで暑さで参っていたくらいだから、これくらいが心地よい。
「由岐に用か?」
「タマさん!」
タマが中庭の桜の枝に乗っている。
春には賑やかに花をつけて美しい枝も、今は枯れかけた葉が幾枚か付いているのみで寂しさを感じる。
トンッとタマが伊織の前に降りて、湯呑みにクンクンとタマが嗅ぐ。
「ふむふむ、生姜湯か」
「はい、由岐に少しでも元気になっていただきたくて」
「由岐! 伊織が来たぞ!」
タマが部屋に声をかければ、スッと障子が開いて、由岐が出てくる。
肩から着物をかけて襦袢のみの姿なのは、これから休もうとしていたのだろう。
「なによ?」
「あ……いや、なんだか表情が優れないようでしたので、これを」
由岐の普段と違う姿に、なんだか目のやり場に伊織は困る。
伊織は、うつむいたまま用意しておいた生姜湯を由岐に差し向ける。
「本当によく見ているのね」
「であろう? 伊織は、視野が広い」
伊織のことなのに、なぜかタマが偉そうにフンスと胸を張る。
「ありがとう」
由岐は温かい湯呑みを素直に手に取ると、ゆっくりと伊織の作った生姜湯に口をつける。
「甘い……」
おろし生姜の風味の他に、ほんのりとした優しい甘味が、由岐の口に広がる。
「でしょう? 隠しておいたお砂糖を少し溶かしているんです。お砂糖なんて、蔵之助に見つかったら、すぐ食べられてしまいますから、ちょっとだけ棚の奥に隠しておいたんです」
ふふふっと悪戯っこの笑顔になる伊織に、沈みがちな由岐の表情に少し明るさが戻ってくる。
「これでかまぼこも持ってきておれば、完璧じゃったのに。後一歩じゃの」
「ありませんよ。そんな高級品。また、五社先生が持って来て下さらないと無理です」
口を尖らせてタマに言い返す伊織を、由岐か微笑んでみている。
「五社先生……いつ戻ってくるのかしら」
「もう三日になりますよね。五社先生がいなくなってから」
由岐と伊織、二人並んで縁側に座って、枯葉だらけの桜を眺める。
いつの間にか二人の間に香箱座りするタマの体温がほのかに温かい。
春には、由岐と伊織と蔵之助と五社とタマ、皆でここで花見をしたのだ。
八重桜の重い枝には、花びらの多い花が、染井吉野が咲いた後に花を誇った。
タマが五社の団子を取ろうとして叱られていたのが、まるで昨日のことのようだ。
「無事よね?」
「五社先生のこと、不安なんですか?」
伊織だって不安だ。
こんなに長い間、何も言わずにいなくなることなんて、今までなかった。
「私ね。父と兄のことを思い出して」
両手で包んだ生姜湯に視線を落として由岐は語る。
◇ ◇ ◇
ーー幼い頃の由岐が夜中に叩き起こされた時、それは地獄の始まりだった。
政府軍の進軍経路にあった藩に、由岐の父は仕えていたのだ。
「起きろ! 敵が来た!」
そう言って由岐を起こした兄は血まみれだった。
「兄……様?」
異様な光景に由岐の顔は強張った。
七つも年上の兄、父から習った剣術が自慢だった。だがまだ、血まみれになるような実戦なんてしたことはなかったはずだ。
「兄様、敵と戦われたのですか?」
「いいや、父上が帰ってきたのだ。負けたのだと。薩摩と長州が、こちらに進軍してくるのだと!」
幼い由岐の耳にも、最近の不穏な動きは理解できなくとも伝わっている。
だが、それは遠い江戸や京の話であり、半分百姓をして暮らしている由岐達のような田舎侍の家族を脅かすような話ではなかったはずだ。
「と、父様は?」
涙を浮かべて父の行方を尋ねる由岐に、兄は悔しそうな顔をして頭を横に振るばかりであった。
「母様は? 小助は?」
「先に……身罷られた」
絞るような兄の言葉を聞いて、由岐は弾かれたように家中を走り回った。
信じられなかったのだ。
由岐が眠りについた時には、皆あんなに幸せそうであったではないか。
小助は母の乳を飲み、寝ぐずる小助を母があやしていた。
父は、藩のご用で出かけていたが、それだっていつもなら、由岐が目覚める朝には、優しい父の顔が揃うはずだったのだ。
「母様! 母様!」
必死で母を呼ぶ由岐が開けた障子の向こうには、血の海に倒れる父の姿があった。
鎧姿の背中に刺さった刀が、ギラリと光って父の絶命を由岐に教えた。
「ひっ!」
由岐は、腰が抜けてペタンと座り込む。だが、まだ母の姿を見ていない。
由岐は、床を這いつくばって、父の絶命していた部屋の隣の襖を開けた。
「か あ さ ま ?」
由岐の舌がうまく回ってくれなかった。
小助を抱いたまま動かない母の腹から、血が流れて黒くなっている。
あんなに可愛い桃色の頬をしていた小助の顔がどす黒く鬱血していた。
「由岐! 由岐!」
気絶する寸前の由岐を揺さぶったのは、兄であった。
「わたしも! わたしも皆と一緒に!」
由岐は、その場で座り込んだまま、そう言ってわぁわぁ泣き出した。
「由岐! 逃げなきゃ!」
そう説得する兄の声に、由岐が出来たのは、頭を横に振って拒絶することだけだった。
「由岐! しっかりしろ! お前には使命があるんだ!」
「……使命?」
「そうだ! 待っていろ!」
由岐が戸惑っていると、兄は持っていた刀で父の首を切り落とした。
ゴトリと落ちる首に、血はほとんど出なかった。もう身体中の血が出きった後だったのであろう。
兄は、その首を由岐に持たせて「父の首級をお前が守るんだ」と、由岐に命じた。
「兄様は?」
涙声の由岐に、兄は微笑んで「俺は……やることがあるんだ」。と、言った。
◇ ◇ ◇
「それから夜明けまで、父の首を持って彷徨ったわ。そして、タマさんと五社先生に助けられたのよ」
由岐はそう言って、タマの頭を撫でる。
伊織は、ふうっと、ため息をつく。由岐の壮絶な過去話に、呼吸も忘れていたのだ。
「兄が何をしに行ったのかは知らないわ。ただ何年経っても噂話一つ聞かないところを見ると……切腹でもしたのかもね」
「そう……ですか」
伊織には、うまく返答が出来なかった。「きっと生きていますよ」なんて軽く言えないし、亡くなったのだろうなんて口に出せない。
「いまいち分からないのよね。生きるための剣術って。だって、父も兄も己の剣術で亡くなったの。兄は一生懸命に学んで、その剣で何も生かさずに亡くなったの。そして生き残ったのは、剣術なんて何も知らない私だけ」
由岐が生姜湯を飲み干す。
伊織には何も言えない。由岐の話から考えて、兄の体に付いていた血は、由岐の家族の返り血であろう。
絶望した母に懇願されて、剣を母に向けたのかもしれない。だが、そんなこと伊織が由岐に言及できるわけもない。
「兄の剣が、由岐を生かしたのじゃよ」
夜風のように優しい声で、タマが呟く。
「そう……思う?」
「ああ、そう思うとも。何かを生かすために兄は辛い剣を振るったのであろう」
「そう……」
腑に落ちたのか、落ちなかったのか……、由岐の表情から伊織は読み取れなかった。
「ご、五社先生は、大丈夫でしょうか?」
伊織は、話題を変えてみる。
「そうよね。まさか、五社先生に何かあるなんて思いたくないけれど、やっぱり心配なのよ。寝ている間に、五社先生が父のように……」
「めめめめめ、滅多なことを言わないで下さいよ!」
不吉な話に伊織の顔が青ざめた。
「心配いたすな。そのうち、ふらっと帰ってくる」
そう予言するタマの言葉通り、数日経って五社は道場へ帰ってきた。
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