透明な監視者

秒夏 瞬

透明な監視者


 

 彼から手渡されたのは少し大きめの箱だった。小綺麗な包装紙に真っ赤なリボンまでかかっている。


 彼は私の目を見ながらゆっくりと話しだす。 



もちろん誕生日プレゼントだよ。でも、開けるのは少し待ってほしい。僕としては君にぴったりなものを選んだつもりだけれど、ひょっとしたら見当違いのものを入れてしまったかもしれない。

逆に、ピッタリすぎるという理由で君を傷つけてしまう可能性もある。そんなつまらないことで唯一とも言っていい友達をなくしたくない。だからもうちょっとだけ考える時間が欲しいんだ。


 気持ちの整理をしながら少し話でもしようか。思い出話。 

そう、大学時代の話だ。僕たちの間にそれ以外の問題があるはずもないか。

あの頃の僕には君以外まともに話のできる相手なんていなかったけれど、そんな君にも打ち明けられなかった秘密が、実のところ山ほどあった。

 今だからこそ笑って話せるけれど、当時の僕には奇妙な習慣があった。強迫観念、といってもいいかもしれない。部屋に一人でいるとき、スマートフォンのインカメラやパソコンのウェブカメラの向こうから誰かにのぞき込まれてるような気分になったことはない? 自分の部屋での行動を四六時中、全世界に生配信されてるような感覚は? 

もしくは自宅に帰って明かりを点けたとき、さっきまでそこに誰かがいたような気配を感じた経験は? 頻繁にある人もいれば、全くない人もいるだろうね。


僕は常にその感覚に苛まれていた。誰かに見られている。四六時中監視されているという妄想に取り憑かれていたんだ。それが始まったのは大学一年生の春、一人暮らしを始めて四日目のことだった。ベッドに寝転んでその日の自分の振る舞いを思い出して反省会みたいなことをしていたら、ふと誰かの視線を感じた。慌てて体を起こして部屋中を見回したけど、もちろん人の姿はない。それでも誰かに見られているという感覚は一向に去らなかった。次の日になっても、その次の日になっても。

 君も知っての通り、僕の住んでいたアパートはちょっとした曰く付きだった。僕の四年先輩にあたる大学生がそこで自殺している、ということは入居前にあらかじめ知らされていた。僕はその手の縁起が気にならない性質だったし、とにかく家賃が格安だったから、喜んでその部屋を借りることにした。でもどうやら僕は、自分で考えているよりもずっと繊細な人間だったのかもしれない。


それまでの僕の生活は、率直に言って自堕落極まりないものだった。あえて詳しくは説明しないけれど、とても人に見せられるようなものじゃなかったんだ。でも監視妄想が始まってからは、僕は常に誰かに監視されているという想定のもと、誰に見られても恥ずかしくない生活を送ることを心がけるようになった。友人なんて一人もいないのに(その頃はまだ君と知り合っていなかった)お洒落な家具を揃えて、読む本も聴く音楽も観る映画もできるだけ高尚なものにした。

君が最初に僕の部屋を訪ねてきたとき、「まるで修行僧みたいな部屋だね」と評していたけれど、事実僕は修行僧みたいな日々を送っていたんだ。透明な監視者に対して見栄を張りたいばかりに。


そうそう、多分君は気付いていただろうけれど、君を初めて部屋に入れたあの冬の日、僕は「これはつまりOKのサインじゃないか」と勝手に決め込んでいた。一人暮らしの男の部屋に無防備に上がり込んで来るっていうのは、きっとそういうことだろうと。でもいざ君の肩に手をかけようとしたとき、いつになく強烈に、監視者の視線を感じた。

そして——仮に監視者なんてものが存在していたとして、僕がそんなやつに気を遣う必要なんてどこにもないのだけれど——

奇妙な後ろめたさに襲われたんだ。この数ヶ月の監視を通して、きっとそいつは僕のことを一種の超人みたいなものと思い込んでいるはずだ。もし僕がここでこの女の子に手を出したら、きっと監視者は僕にがっかりするんじゃないか。なんだ、こいつも結局はどこにでもいる下心ばかり膨らんだ男子大学生の一人に過ぎないのか、と失望されるんじゃないか。

今ではその透明な監視者に感謝しているんだ。おかげで僕たちは今もこうして良き友人でいられるわけだから。あのとき君が本当はどういうつもりでいたかは聞かないでおくよ。


・・・本当? あ、なんだか監視者が憎くなってきた。やっぱり隠れて人の部屋を覗き見るようなやつは屑だよ。


ええと、話が逸れちゃったね。以来、僕はずっと見えない監視者との疑似的な二人暮らしをしていたのだけれど、そんな狂った日々にもやがて終わりが来る。大学三年の春。忘れもしない、国内で初めて緊急事態宣言が発令されたあの春だ。大学は立入禁止になり、アルバイト先も休業になって、いきなり宙に投げ出されたみたいだった。もっとも僕個人の話をすれば、そうなる前から休みの日は一人で過ごすことが多かったし、好んで遠くに出かける趣味もなかったから、生活に取り立てて変化はなかった。後になって振り返ると僕も決して蚊帳の外ではなくて、目に見えないところで色んなものを奪われていたんだけれど、当時はそこまで考えが至らなかった。自分の行動力のなさや無味乾燥な人生を肯定されているようで、ちょっとだけ生きるのが楽になったくらいだった。

図らずも模範的な自粛生活を送っていた。にもかかわらず、僕は体調を崩した。六月下旬のことだ。何かあったときのために常備薬や保存食を買っておこうと思い立ってドラッグストアに行き、どうやらそこで感染したらしかった。一週間ばかり寝込んでいたように思うけど、何しろ意識が朦朧としていたから、自分がいつからいつまで病床に臥していたのかはっきりとは覚えていない。

本当に例のウイルスが原因だったかどうかも定かじゃない。病院には行かなかった。なんていうか、医師やら誰やらにあれこれ説明するのが億劫だったんだ。

ただでさえ妄想に浸されていた僕の頭だったけれど、高熱にうなされている間は本当に奇妙なことばかり考えた。真夜中にふと、このウイルスは社会生活に適応できない人間を駆逐するために人為的に開発された生物兵器なんだ、なんて「真実」に目覚めたりもした。朝陽を浴びるとそうした被害妄想はあっという間に蒸発して、でも夜が更けると再び形を変えて襲ってくる。そんな繰り返しが続いた。

時には幻覚のようなものさえ見た。幻覚の中心は、やはりあの透明な監視者だった。幻覚の中の監視者は不思議と優しかった。僕がそれを求めていたのだから無理もない。監視者は僕が苦しんでいることを誰より早く察知して、一時休戦の判断を下し、看病に駆けつけてくれるんだ。

こっそり僕の寝汗を拭いてくれたり、病人食を作ってくれたり、まだ存在しないはずの治療薬を持ってきてくれたりする。僕が礼を言うと、監視者は「自分は君のことを気に入っているから特別の扱いをしている」という意味のことを話す。そうして朝が来て、僕はまた一人になる。寝汗に濡れた服を着替え、一人で食事をとり、気休めの薬を飲む。

一番ひどい時期を乗り越えていくらか体調が持ち直したとき、何より先に僕は、あのべったりと張り付くような視線をほとんど感じていない自分を発見した。数日間僕を苦しめた高熱は、二年前から続いていた監視妄想までも焼き尽くしてしまったようだった。

そして同時に気づいた。僕はその姿の見えない誰かが自分を見守っているという幻想に救われていたんだ、と。それは自意識過剰の病などではなく、僕はひとえに寂しさから無言の同居人を創り出していただけだったんだ、と。

自分は孤独に強い人間だと思っていた。でも、ある意味で、本当に孤独になったことは一度もなかった。そしてもうすぐ僕はそれを知ることになるだろう。

夜明けが近かった。幻想は消えかかっていた。

僕はその気づきを、もうすぐ消えるその誰かに向けて語った。まるで長年連れ添った相手と思い出を語らうみたいに。傍から見たら、ずいぶん長い独り言だったと思う。

その後簡単な食事をとってから、久しぶりに部屋の外に出た。空は白み始めていた。いつの間にか夏虫が鳴くようになっていた。僕は住宅地をふらふらと歩きながら家々に灯る明かりを眺め、それぞれの明かりの主の一生に思いを馳せた。愛おしさと同じ形をした空虚は、だからこそ愛おしさによく似ていた。監視者が現れるよりずっと前の時点で僕は狂っていて、今やっとその狂気から解放されたのだと思った。

あるいはそれも病み上がりの頭が生みだした幻覚だったのかもしれないけれど。



・・・さて、実を言うと、話はここからが本題になる。



長い散歩を終えて部屋に戻ると、見慣れないものがベッドの上に置いてあった。

五つの小型カメラと三つの盗聴器。そして一枚の手紙。

端正な字で、簡潔なメッセージが記されていた。


その日を境に、僕の奇妙な習慣はふっつりと止んだ。もはや見栄を張ってもしかたがない。

だって、もう誰も僕を見ていないのだから。一方で、以前の自落な生活に戻ることもできなかった。無理をして高尚な趣味を気取っているうちに、いつしか僕は本当にそれらが好きになってしまったみたいだった。僕がこうして物を書いて生活できるようになったのは、あの背伸びがあったからに他ならない。

手紙に何が書いてあったか?それは秘密にしておくよ。手紙って、そういうものだろう。

確かなのは、僕がその手紙を何度も何度も読み返したこと、手紙に書いてある言葉を真に受けたこと、今ではそれなりにまともな人生を送れていること。それで手紙の内容もおおよそ見当がつくだろう?

この話をするのは君が初めてだ。本来なら、五年前に話しているはずだった。君ならこういう話を楽しんで聴いてくれそうだからね。でも僕が病から回復したときには、君はとっくに大学を辞めて町を去っていた。だから今日の今日まで話せずじまいだったんだ。やっと肩の荷が一つ下りた気分だよ。


もしその人と会って話をすることができたら、か。それは僕も考えた。考えずにはいられなかった。もちろん許されることじゃない。たとえどんな事情があったにせよ、その人がしていたのは立派な犯罪行為だ。たまたま僕が異常者だったからよかったものの、普通の人間からすればぞっとする話だろう。

だから文句の一つや二つ言ってやりたくはある。でも、初めて監視者に声をかけたあの日、言いたいことは全部言ってしまった気もするんだ。振り返ると、ずいぶん恥ずかしいことまで赤裸々に語ってしまったように思う。忘れてくれていればいいんだけれど。 


そうだね、会って言いたいことは特にない。強いて言えば、あのカメラと盗聴器を返却したい。ずいぶん値の張るものだったようだから、処分するのにも気が引けてね。今までずっと捨てられずにいたんだ。

  



プレゼント?ああ、すっかり忘れていた。もう開けていいよ。僕から君へのささやかなお返しだ。


箱を開けるとそこには私のものだった五つの小型カメラと三つの盗聴器が入っていた。



 

 

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