Day05 琥珀糖
図書館の裏には一軒の駄菓子屋があった。肝心の子供はあまり寄り付かない。「魔女の店」と噂されていたから。
「ババアに捕まったら砂糖漬けにされて、お菓子に変えられちゃうんだぞ」
根も葉もないまま、クスクス笑いと共に繰り返されるくだらない話。私は半ば憤慨しながら駄菓子屋に通った。両親の帰りは遅く、学校が終わると図書館で時間を潰す。そして、帰り際に駄菓子屋でお菓子を買う。夜までにお腹が空いてしまうから……。
「おばあちゃん、これちょうだい」
「はいはい、いつもありがとうね」
私は、ここのおばあちゃんが大好き! 物静かでいつも笑顔で。私のことを「本の虫」ってからかったりもしないし。
「そうだ。ミカちゃんはいつも贔屓してくれるからね。これをおまけにあげるよ」
棚の奥からゴソゴソと取り出したのは、藍色の紙製の小箱だった。中を開けると、宝石がたくさん詰まっていた。わぁっ、と歓声を上げる。
「石みたいで綺麗だろう。それはね、琥珀糖というんだよ。見た目よりも柔らかいからね……食べてごらん」
薄暗い店内で、それは光を放つように薄らと輝いて見えた。口に含むと、シャリ、という微かな音と共に、舌の上で溶けてゆく。
「おいしい……」
「そう? よかったよぉ。ババアの手仕事だけども、喜んでもらえて」
六時を知らせる鐘が鳴る。ありがとう、じゃあね、おばあちゃん。と、声を掛けて出て行く。
「ミカちゃん」
珍しく、おばあちゃんは店の外に出て私を見送ってくれた。彼女はゆっくりと手を振りながら、皺だらけの顔に笑顔を浮かべている。
「寂しい時に、少しずつ食べるんだよ。一気に食べてはいけないよ」
「……?」
不思議な言葉だな、と思いながらも、私は手を振り返した。そして、ランドセルを背負って、家路を急いだ。
その日もいつも通り、おやつを食べて時間を潰し、夜になったらお惣菜をチンして、宿題をやって布団に入り――うとうとし始めた頃にようやく両親が帰宅する音を聞く、そんな一日だったけれど。何も考えずに、ストン、と眠りに落ちることができた。
遠くで水の流れるような、清らかな音がしたような気がした。
翌日。おばあちゃんの駄菓子屋は、もうそこには無かった。パワーショベルが木造の家をどんどん壊していく。バキバキ、バキバキ。
「なんか悪いことしてバレたんだよ、サツに追われたとか!」
「借金して夜逃げしたんだ」
「魔女っていうか魔性のオンナだったんじゃねーの?」
あんなババアが? 誰かがそう言えば、ドッと笑いが巻き起こった。普段は全然人通りなんかないのに、今日は見学の子どもでいっぱいで。
私は無性に悲しくて、悔しくて、怒ってもいて。だからランドセルのベルトを両手で掴みながら、吐き出すように呟いた。
「おっ、おばあちゃんは、そんな人じゃない……!」
「えーっ、本の虫がなんか言った!」
バキバキ、バキバキ。木の柱が折れていく音と、土埃。
「君たち! 危ないから、もう少し下がっていなさい」
解体業者の人がそう言って近づいて来ると、悪ガキ達は蜘蛛の子を散らす様に逃げ出した。私も、もう少し眺めていたかったけれど、目が痛かったし霞んできたから、トボトボと家路についた。
おばあちゃんから貰った琥珀糖。惰性でつけたテレビの音も、横たわる畳の感触も、何もわからなくなるくらいに渦巻いた感情の坩堝の中で、私はその箱をジッと見つめた。そして、ガバッと起き上がると、一気に食べ始めた。
あんなに清らかな食感も、優しい味も、涙のしょっぱさで上書きされていく。悲しい悔しい腹立たしい、寂しい寂しい一人は寂しい。置いていかれた、いつも一人。どうして私はいつもこんなに寂しいの。
聞き分けのいい大人しい子。だってそうでしかいられなかった。父も母も共働き。休みの日の父は寝てばかりで、母はずっと不機嫌で。そしたら、ワガママなんて何も言えない。手伝うよ、無理しないで、大丈夫? そんな言葉を吐き出すしかない。
宝石のように輝くそれを全部お腹に収めてしまうと、もう光はどこにも見えない。薄青い夕暮れに沈んでいくリビングで、私は声を上げて泣いていた。
「……おやおや」
気がつくと、私は眠っていたらしい。すっかり夜になってしまった……そう思って起き上がると、何かがおかしいことに気づく。
ここは、私の家じゃない。見たこともない青い景色、足元で水面だけ光る黒い川。……昨日、寝る前に聞いた、あの水の音が聞こえる。つま先が水に浸かっているけれど、冷たくはない。足を持ち上げると、光の筋が砂のように煌めいた。
「一気に食べてはいけないと、忠告しておいたのにねぇ」
聞き覚えのある声。顔を上げると、川縁に椅子があり、あのおばあちゃんが座っていた。いつもの笑顔で。
「おばあちゃん……」
「お立ちなさいな。いいのよ、子どもなんて好き勝手するのが仕事だものね」
でも、こんな所にまで来てしまうなんてねぇ。そう呟きながら、おばあちゃんは立ち上がり、私の方へ近づいて来る――一歩歩く毎に、どんどん若返って、遂には私と同い歳くらいになった。
「――――」
「どうかしら。これくらいの歳の方が、親しみやすい?」
くるり、とその場で回って見せる。花柄のセーターはワンピースになり、動くことも億劫そうだった手足は、踊り子のように軽やかになって。
「……魔女……」
「みんなそう呼ぶわね。貴方もそう思う?」
鈴が転がるような声で笑い、猫のような眼で私を見つめる。
「ねぇ、ミカちゃん」
ドキッとする。授業中に当てられるよりも、悪ガキ達にからかわれるよりも、ずっと鋭い胸の高鳴り。
「貴方は私の世界に来てしまった。そんなに寂しかったのね」
「……それは……」
「でも、私は一つの場所に留まれない。時空だって超えていきたい。だって、止まることはつまらない。私はいつまでも身軽でいたいの」
だから、貴方を見守り続けることはできない、けれど。
するり、と魔女の手が私の手を取った。何度もお釣りを渡してくれた、あの皺だらけの大きな手ではない。内から青白く輝くような、白魚のような指先で。
「貴方、素質あるわ。普通はあの琥珀糖を食べても、夢としてここの景色を見るだけだもの。それなのに、こんなに意識を保てるなら――貴方、私の弟子になれるかも」
「……魔女の、弟子……?」
彼女は私の手を取り、クルクルと舞う。私はダンスはからきしなのに、不思議と動きについていけた。……違う、ついていけてるんじゃなくて、そう動かされてるんだ。まるでマリオネットみたいに。
「弟子なら私が面倒見れる」
どうかしら、と囁く声はびっくりする程魅力的で、すごくドキドキして、頬が真っ赤になる程高揚した。
この世界は素敵だ。
星が降るように鮮やかで、暗くて静かで、でも美しくて。どこまでも清らかで、広くて。ここには寂しさも怒りもない、この世の苦しさからは無縁だから。あまりにも魅力的な提案で、すぐにでも頷きたかった。なのに。
私は、泣き出しそうな顔をしてしまった。こんな時、即決できない私はなんて弱虫なのだろう。
でも、選べなかった。だって。
一度選んでしまったら、もう二度と戻れない気がしたから。
「……ごめんなさい。怖がらせるつもりは、なかったのよ」
魔女が、フッと寂しそうに微笑んだ。そして、私の手を離した。最初と同じように、優しく、音もなく。
「貴方が、昔の私に似ていたから、ついお節介しちゃったの」
手を離された時、見捨てられた感じがして、たまらない気持ちになった。駆け出して、待ってと叫びたくなった。その指先に、また掌が触れた。
「でもね。私はいつでも、貴方の味方よ、ミカちゃん」
再び、手が離れる。その刹那、私と彼女の間に、青白い光が散ったように見えた。
魔女は軽やかに川の向こうへ渡る。水面を蹴ると、波紋が光の輪のように爆ぜる。月のない青い景色に、魔女の周りで散った水滴が、星のように舞う。
「忘れないで。私はいつでも、ここにいるから」
あまりにも寂しくなったその時は、またここにおいでなさいな。もう、キッカケなんていらないでしょう――?
遠ざかってゆく魔女の声は、歌のように私の耳を揺さぶった。
目を覚ますと、朝になっていた。いつもの自分の部屋……ベッドの上。
何もかも夢だったのだろうか。そう思って机の上を見ると、手紙が置いてあった。
「……母さんの字だ」
――ちゃんと自分の部屋で寝なさい。お父さんも心配していました。おやつばかりじゃなくて、食事もちゃんと摂りなさい。冷蔵庫に入っているなら。それと……。
「……あまりにも大事そうに抱えていたから、机の上に置いておきました……フフッ」
手紙の上には、あの琥珀糖が入っていた小箱があった。手に取っても、中身は空っぽ。夢で見たような藍色の紙箱と、砂糖のカケラが僅かに光るばかりのグラシン紙。
私に、魔女はまだ早い。……もう少し、自分の力でやりたいことができたから。
まず、両親とちゃんと話そう。嫌なことは嫌、寂しいものは寂しいと言おう。私はまだ子どもなのだと、わかってもらおう。
この勇気は、私のどこから湧き起こるものなのだろう? ――目に焼きついて離れない程に、美しい景色。それがこんなに力強く、背中を押してくれるものだなんて、思ってもみなかった。
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